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江~姫たちの戦国~ その背景 -関ヶ原の戦い その16- 石田三成の最期

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大河ドラマの進行を無視して続けてきました、
関ヶ原の戦いの記事もこれで最後になります。

大河ドラマを戦国時代を勉強し直す機会としまして、
特に関ヶ原の戦いでは、
何も知らなかったんだということに気づかされました。

多くの戦でもそうなのでしょうが、

ここがどちらに転ぶのか

という勝敗を決定づけることになります。
関ヶ原では、そのほとんどの出目が
徳川家康のほうに味方するものでした。
お書きしていないことでは、
西軍が攻め手となった大津城の戦いでは、
その開城が関ヶ原の戦い当日となってしまっていたり。
もしも、京極家が家康の味方にならなければ、
1日でも早く攻略できていれば、とか。

歴史にifはないといいますけれど、
当事者たちは、それぞれのifの先にある結果を考え、
自らにより良い結果を導くべく、
策を巡らすのでしょう。
徳川家康の策がことごとく実を結び、
唯一、家康にとってマイナスになったのは、
秀忠が上田城の真田親子に手こずり、
関ヶ原に遅参したぐらいでしょうか。


1600年9月15日、
ことごとく、当てが外れた石田三成。
関ヶ原では小早川秀秋が西軍を攻撃し始めたことで、
西軍全軍が壊乱、三成自身も敗走します。

18日には三成の居城、佐和山城は落城、
三成の父を含め、一族の多くがここで討ち死にします。
三成自身は、関ヶ原から北の伊吹山へと逃れていました。
姉川~小谷付近を通り、古橋村へ。
この古橋に与次郎という農民がいました。
彼の手引きで、三成は山中の洞窟に身を潜ませます。
この時、既に三成方の者をを見つけたならば
差し出せという触れが回っていました。
三成を生け捕りにしたならば、年貢の永久的免除を約束するとし、
また、首を上げ差し出したならば、金百両の賞金を。
逆に三成を匿ったならば、一族郎党皆斬首だという触れでした。

与次郎はそれを承知の上で三成を匿いました。
彼は妻とその縁者に累が及ばぬよう、
妻を離縁してまで、三成を匿おうとしました。
しかし、三成自身がここから去る事にしたようです。
それは、与次郎ら村人たちを
皆殺しにさせる訳にはいかないと考えたためかもしれません。
そして、徳川軍の田中吉政に捕縛されます。

22日、大津城に晒される三成。
この時、福島正則と対面しているようです。
正則は

分を弁えぬ愚か者め

と罵ると、返して三成は

自分になかったのは武運である。
そして、二心を持つ者を見抜く目である。
お主の所業、必ずや太閤殿下にしかとお伝えしようぞ


と言ったとか。

27日、大坂へ護送。
28日、大坂中、堺中を引き回されます。
10月1日は六条河原。
斬首のために連れてこられました。
六条河原で喉の渇きを覚えた三成、
水が欲しいと護送役の男に頼みます。
水は与えられぬが、と彼は腰に下げてあった干し柿を差し出しますが、

かたじけないが、干柿は痰の毒ゆえ

と、三成は断ってしまいます。
間もなく殺されようとしている三成が体の事を気にしているとして、
護送役は笑いますが、

汝らのような者にとっては尤もな了見であるが、
大志を抱く将たる者は、首を断たれる瞬間まで体をいたわるものであり、
それはなんとかして本望を遂げんと思うからである


と語ったとされます。

辞世の句。

筑摩江や 芦間に灯す かがり火と
     ともに消えゆく 我が身なりけり


滋賀県米原市、琵琶湖畔には筑摩神社があります。
平安の歌にも「筑摩江」という言葉が見られますが、
当時からこの入り江を題に取った歌が詠まれてきていたのでしょう。

――――芦の間から見えるかがり火がやがて消えていくように
               我が身も最期となるのだ―――――

享年41。

小早川秀秋らは、
三成の居城、佐和山城に入った時に驚いたそうです。
期待していた金銀は全くなく、
壁は塗りの施されていないむき出しの板張り、
庭も殺風景な木や石があるのみ。
豊臣秀吉の右腕であった三成ですが、
19万石の主の城には似つかわしくないものだったそうです。
村人たちが彼を匿った理由は、
このあたりにあるのかもしれません。



ねてしてタペ







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