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平清盛 第二十一話「保元の乱」 その背景~崇徳・忠実・頼長は挙兵するつもりはなかった?~

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前回の記事では、ドラマが面白かったため、
劇中の方を掘ってしまいましたが、
今夜は史実から保元の乱を考えます。


保元元年(1156年)、7月2日の夕刻、鳥羽法皇崩御。

その直前に崇徳上皇が見舞いに訪れています。
いよいよ法皇の容態が危ないとなったと知り、
鳥羽殿に現れたものの、対面は出来ませんでした。
それどころか、門前払いという目に遭い、
憤慨した崇徳院は鳥羽田中殿へと引き返します。

そして、鳥羽法皇が崩御。
崇徳院は急ぎ駆けつけますが、
またもや、中には入れません。
どうやら、法皇の遺言にの中には、
遺体を崇徳院には見せるなというものが含まれていたとか。

崇徳院はまた引き返すしかなく、
葬儀は崇徳院がいない状態でその夜に行われました。
そして京の都に流れる噂…

上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す

崇徳院が左大臣・藤原頼長と組み、
政権強奪を企んでいるというのです。

5日、この噂の対策として、
後白河天皇は京中の武士を動かすことを禁止の勅命。

6日、その命に背いたとして、
京に潜伏していた藤原頼長方の源親治を
検非違使の平基盛(清盛次男)が捕縛しています。

8日、藤原忠実・頼長に対し、
荘園から兵を招集することを天皇が禁止、
同時に源義朝の手勢が摂関家当主代々の東三条殿を襲撃、
この邸宅を差し押さえています。
没官と呼ばれるこの措置は、
謀反人に対して行われるものであり、
この時点で、忠実と頼長は反逆者として
扱われていることが明らかになったのです。

後白河天皇の勅命で行われたこれら一連の措置で、
実際に動いていたのは信西だとされています。
鳥羽法皇が危篤の段階で既に味方の数を確実なものにしていた、
信西、美福門院得子、藤原忠通側が
相手の武士の動きを封じることが出来たと見る事が出来ます。

そもそも、忠実・頼長に、法皇崩御以前も以後も、
兵を動かしたという形跡は見られないようで、
これは既に数的有利を確実なものにした信西側が、
忠実・頼長親子に対して仕掛けた挑発だったのでしょう。
彼らが兵を挙げれば、信西も武力で叩き潰すことが出来ます。
では、

上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す

この噂、誰が口にし始めたのでしょうか?
何者かの意図でこの噂が流されたとすれば…?

藤原忠実・頼通に残された手段は

挙兵

ただその一つしかありませんでした。


崇徳院も忠実・頼通が謀反人とされたことに慌てました。

上皇左府同心

は既に皆が認めるところであり、
このままでは、自分も捕らえられてしまうかもしれません。
上皇は重仁親王を伴わないまま、鳥羽田中殿を脱出、
妹・統子内親王の御所に乱入、
そこは洛東の白河…
かつての治天の君、白河法皇の御所でした。


10日夜、頼長が白河入り。
追い詰められた彼に残された選択肢は崇徳院を担ぎ、
挙兵するよりありませんでした。
たとえそれが信西の狙いだとわかっていても。


これ日来の風聞、すでに露顕する所なり

噂が真であったことが明らかになったと、
後白河天皇方は崇徳院方の動きに対し、
京中の武士を招集、それは

軍、雲霞の如し

と伝えられるほどの兵の数であったようです。

信西と源義朝は相手の虚を突き先手を打つ夜襲を主張、
藤原忠通は賛成しませんでしたが、
押し切られる形で軍議は決しました。


11日未明、天皇方の軍が進発します。






ねてしてタペ






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