Quantcast
Channel: テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

ビーバップ!ハイヒール 「知られざる涙の“なでしこ”物語」 その1 人見絹枝の壮絶な闘い

$
0
0

毎夜、ロンドンオリンピックで楽しませてもらっていますが、
今大会も特に女性の活躍が目につきます。
今大会は、第30回にして、
はじめて、男子競技と女子競技の数が同じになりました。
日本からの選手団では、今大会も女子選手のほうが多くなっています。

なでしこジャパンなど、
日本の女子選手が国際舞台で大活躍している現在、
しかし、女子選手たちが今のように全国民から応援を受け、
そして勝利には拍手を浴びることが出来るようになったのは、
そんなに遠い昔のことではありません。


先週の番組では、"なでしこ"の歴史が扱われていました。
先生は

横綱白鵬関 "自分の国"からは逃げられない ~震災と大相撲、彼が背負うもの~ 震災4ヶ月
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10949912502.html

以前、この記事でもご紹介した
ノンフィクション作家の小松成美さんです。



いつものように、他の番組などからも補足しつつ、
記事にしてみたいと思います。


日本人女性で初めてオリンピックに出場した選手は、
人見絹枝でした。
そして、彼女が日本の女性選手初のメダリストでもあります。

1928年、ようやく陸上競技のうち5種目のみに女性選手の参加が認められた
アムステルダムオリンピック。
人見絹枝は21歳でした。
彼女は大阪毎日新聞の記者でもあり、選手兼記者という立場で、
日本代表選手の中で、唯一の女性でした。
100m走選手として出場した彼女は、
惜しくも準決勝で敗退してしまいます。
負けたまま帰国することは出来ないと800mの出場を決意、
しかし、彼女は実戦で800mを走ったことはありませんでした。

アムステルダムオリンピックに出る時、
世界記録を上回るタイムで100mを走った寺尾姉妹を誘ったそうです。
人見自身が寺尾姉妹の家族の説得に当たりましたが、
出場させることは出来ませんでした。
そういう時代だったんです。

人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない

人見絹枝の実家にも、
このような非難の手紙が送られてきています。

日本女性の個性を破壊する

などとも。
止まない誹謗中傷に彼女は後に、

いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い選手や日本女子競技会には指一つ触れさせない

と書いているそうです。


人見絹枝は、男子選手にはない気概を持ち、
オリンピックの大舞台に臨んでいました。
800mの予選を通過、決勝進出が決まりました。
決勝はドイツのリナ・ラトケと接戦となり、
2着の銀メダル。

1928年8月2日。

これが日本人女性選手初のメダルとなりました。

彼女には作戦がありました。
800m走を700m走のつもりで走るというのです。
決勝の他の選手はこのために出てきた選手ばかり、
そして、自分は出場を決めたばかりの100m選手。
100m選手なら、100m選手の武器がある。
瞬発力なら他の800の選手には負けない自信があったんです。
だから、彼女は700mを出来る限りの力で走りきり、
700m走った後なら、そのあとの100mは体が憶えているはず。

ドイツのラトケとのデッドヒートとなったレース終盤、
両者は倒れ込むようにゴールしました。

人見絹枝(左) ラトケ(右)

ラトケは助けを借りて立ち上がりましたが、
人見絹枝は立てません。

彼女は意識を失っていたのです。

700mを余力を残さず走った彼女は、
最後の15mを本当に体が憶えている動きだけで
ゴールまで走り抜きました。
そして、彼女の膝からは血が。
レース中、他の選手のスパイクで負傷していたのでした。


その後、彼女は選手として、後進の指導者として、
そして、女性選手の地位向上のための運動家として活動を続けました。
遠征には多額の費用も必要です。
彼女の提案で寄付金を募りました。

競技者としては、三種競技で世界記録を樹立するなど、
活躍を見せますが、多方面での活動が次第に彼女の記録を悪くさせていきます。
そして、自分がどれだけ活動しても、
日本国内での批判はあらたまらず、
国際大会を連戦する中で、彼女は扁桃炎を患います。
それでも、帰国した時には記者として働き、
寄付してもらった先にはお礼をしています。

1931年3月25日、喀血。
肋膜炎でした。

肺炎を併発。

8月2日、結核の一種である乾酪性肺炎により死去。

24歳。

アムステルダムの銀メダルから、
ちょうど、3年後のことでした。





アムステルダムオリンピックから64年後。
1992年バルセロナオリンピック。
有森裕子は人見絹枝と同じく岡山市の出身で、
また、彼女の祖母が人見の女学校の1年後輩でもありました。
有森は祖母から、

いつか女性選手が活躍する時代が来る

と信じていたと何度も聞かされていました。
その信念があったから、
人見が周囲から何を言われても耐えていたことも。
有森は人見絹枝の写真を持ち歩き、
心の支えにしていたそうです。

その有森裕子がマラソンで銀メダルを獲得します。
これが日本女子選手2つめのメダルとなります。

この日、1992年8月2日。


人見絹枝がアムステルダムで銀メダルを獲得してから、
ちょうど64年目の出来事でした。

人見絹枝の命日からちょうど61年目の出来事でした。

バルセロナから帰国した有森は感謝を胸に、
真っ先に人見絹枝の墓前へ報告したそうです。








ねてしてタペ



Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

Trending Articles