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世紀のワイドショー ザ·今夜はヒストリー「江戸経済革命」#1 八代将軍・徳川吉宗

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少し前になりますが、
8日に放送された番組の中から、
徳川時代の財政危機・経済危機への対応を見てみます。
毎夜は無理ですが、
ちまちまと続けていきたいと考えています。
今はグローバル経済ですので、
単純には比較できないとは思いますが、
何かしら得られるものがあるかもしれません。

この日の番組では、5人が扱われましたが、
そのうちの上杉鷹山については、

歴史秘話ヒストリア「上杉鷹山 天災と戦う なせばなる!奇跡の復興物語」
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11205756689.html

ここからの記事をご覧下さい。

では、第八代将軍徳川吉宗から。
番組とは異なる内容にもなっていますけれど。

徳川吉宗

今回は触れられませんでしたが、
彼が将軍職に就く頃の幕府は、
借金まみれでした。
これは第五代将軍の綱吉(とその母・桂昌院)による公共工事、
寺社の改築、道路整備、架橋などの支出が大きく、
その他、その前の大火や大地震、富士山の噴火などで、
幕府の財政は危機的状況でした。
幕府の役人たちは、どれぐらいの借金があるのかがわかりません。
なぜ、わからないかといえば、
いちいち記録してなかったという無頓着ぶり。

そこへ吉宗が将軍職に就くと、
幕府の財政再建に着手します。
享保の改革として知られるこの幕政改革、
たとえば、倹約令を発し、自ら質素倹約を率先して実行、
幕府の支出を抑制しました。
その中でも有名なのが大奥の改革です。

吉宗は大奥の総取締役を呼び出します。
そして、

大奥の中から二十五歳以下で、
特に見目麗しい者を五十人選び出せ


と命じます。
大奥はいよいよ側室選びかと浮き足立ちます。
五十人が選ばれ、彼女たちに吉宗が告げた言葉が

そのほうたちには本日限りで暇を取らす

と、江戸城から出て行けという宣告でした。

番組では当時の幕府の年間収入を80万両(640億円)とし、
また、大奥にかかる費用を20万両(160億円)としていました。
全収入の25%が大奥で費やされているということで、
吉宗はその規模の縮小に乗り出していました。
大奥の中でも美しいのであれば、
よい縁談もあり、よい働き口もあるだろうという理由で、
その50人を選んだとされています。
ただし、吉宗自身が「美女が好みではなかった」という異説もあります。

支出抑制ともに、収入を増やす改革も行っています。
上米令では各大名に対して、
1万石あたり100石の米を幕府に納めるよう命じました。
これは徳川幕府が独立採算不可能で、
大名に頼らないと財政が成り立たないことを公言してるようなもので、
幕府の体面は傷つきましたが、
収入は得られました。
ただし、その見返りに大名へは、
参勤交代の江戸在府期間を従来の1年から半年に減らしています。

また、年貢の徴収を検見法(けみほう)から、
定免法(じょうめんほう)へと改めます。
検見法はその年ごとに収穫量から納めるべき年貢の量を決めますが、
定免法では、過去の平年値からその量が決められます。
幕府に納められる米の量の安定を図ろうとしたものですが、
これでは、不作の年でもその量の年貢を納めらなくてはならなくなりました。
(ネガティブな評価ばかりではないんですが)
また、年貢については「四公六民」としていたものを、
「五公五民」に改め、
理屈の上では収穫量の半分を御上に納めることとなります。
補足としましては、「四公六民」といっても、
実際に4割を納めていたわけではなく、
検地のデータが古いからか、
実際には2割8分程度の割合に落ち着いていたようです。
これが「五公五民」になりますと、
最大で3割5分程度が年貢として納められています。

つまり、増税ですね。

この他、新田開発とその奨励を行っていて、
米に関わる改革が多かったことから、
吉宗を指して「米将軍」「八十八将軍」などという異名も。

新田開発は経済活動において、
プラスとなるものではありましたが、
景気に影響を与えるほどでなかったからか、
倹約令と大増税が行われたため、
景気は大きく冷え込むことになります。
享保の改革により、たしかに幕府の財政は回復しました。
しかし、人口の増加は頭打ちになり、
一揆も増加してしまっています。

経済の観点からみると、
評価が芳しくないのが徳川吉宗だったりします。
ただ、一つだけ経済面で彼の改革が高く評価されているものがありました。

天元の改鋳

です。
小判は金を鋳造して出来ているわけですが、
全てが金だという訳ではなくて、
主に金が、次いで銀が、そして銅、鉛などがその成分となっています。
1枚の小判に占める金の割合は、
時代ごとに異なり、吉宗の時代ですと、
「享保小判」は金含有率86.8%だったのに対し、
次の「元文小判」は65.7%にまで下がっています。
小判1枚を鋳造するのに必要な金の量が減れば、
それだけ多くの小判を鋳造、発行することが出来ます。
世の中の小判の量が増え、
それまでの景気低迷から好景気へと転じました。
これは現代で「リフレ政策」と呼ばれているものに通じます。
この政策転換には大岡忠相が関わっているとも言われています。



次は「暴れん坊将軍」でも、
2時間SPなどではいつも吉宗と対立していた
尾張・徳川宗春についてお書きします。





ねてしてタペ


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