優作、俺は今までお前が死ぬとこを
何度も観てきた。
そしてその度にお前は生き返ってきたじゃないか。
役者なら生き返って見せろ。
生き返って出てこい
1974年「竜馬暗殺」で原田芳雄さんは
松田優作さんと共演。
松田さんは原田さんに憧れ、
仕草や喋り方、一挙手一投足を真似るようになります。
そして、原田さんも彼を弟のように可愛がりました。
1989年、癌により亡くなります。
そんな原田さんが松田さんへ送った弔辞です。
数々の冗談をありがとう。
いまいち笑えなかったけど。
今日もそうだよ。
ひどいよ、この冗談は。
うん、でもなるべく笑うよ。
清志郎、ありがとう。
2009年に、癌性リンパ管症で亡くなった忌野清志郎さんへの
甲本ヒロトさんの弔辞です。
ながいながい夢だったのに違いないのですが、
いったいどんな夢を見続けておられたのでしょう。
1997年、口腔癌から間質性肺炎を発症し亡くなった星新一さん。
彼とともに、SFが文学として認められていなかった時代から、
ともに戦ってきた"戦友"の筒井康隆さんの言葉。
筒井先生はこの番組のレギュラーです。
その手紙をもらうことがあるとすれば、
人生でたった一度だけ。
それが弔辞です。
今週の番組は
THE ラストメッセージ~人生最期の手紙『弔辞』~
と、弔辞の特集でした。
先生は高平哲郎さん。
元々「今夜は最高」や「笑っていいとも!」、
「オレたちひょうきん族」などに関わってこられた、
放送作家さんで、特にタモリさんとは
彼が芸能界入りする以前からのお付き合い。
作家、劇作家、演出家、編集者でもある彼が
故人への愛を詠んだ弔辞を集めた本、
大弔辞 先輩、友、後輩へ綴られた最後の愛の手
からのお話です。
なお、番組にはありませんでしたが、
この本の中には他に左に故人、敬称略でお書きしておきます。
「植木等 小松政夫」「夏目漱石 芥川龍之介」「高品格 宍戸錠」
「淀川長治 黒柳徹子」「渥美清 倍賞美津子」「柳家小さん 柳家小三治」
「バッキー白片 大橋節夫」「いかりや長介 加藤茶」「神代辰巳 桃井かおり」
「市川崑 岸惠子」「星野哲郎 水前寺清子」「園山俊二 東海林さだお」
「赤塚不二夫 タモリ」「渡辺和博 南伸坊」「荒井注 いかりや長介」
「逸見政孝 山城新伍」「三船敏郎 黒沢明」「川喜多和子 淀川長治」
「三沢光晴 徳光和夫」「手塚治虫 加藤芳郎」中上健次 安岡章太郎」
「青島幸男 谷啓」「青空千夜 リーガル天才」「小池朝雄 稲垣昭三」
「成田三樹夫 菅原文太」「岩川武大 丸谷才一」「池波正太郎 山口瞳」
「東野英治郎 森繁久弥」「杉村春子 新藤兼人」「服部良一 吉田正」
「原田芳雄 石橋蓮司」「西村潔 黒澤満「芥川龍之介 菊池寛」
「フランキー堺 小沢昭一」「今村昌平 北村和夫」「石原裕次郎 勝新太郎」
「滝田ゆう 長部日出雄」「南利明 由利徹」「横澤彪 山崎努」
「谷啓 犬塚弘」「上村一夫 阿久悠」「辰巳柳太郎 島田正吾」
「宇野重吉 滝沢修」「寺山修司 唐十郎」「野沢那智 白石冬美」
「景山民夫 高平哲郎」
1989年、間質性肺炎による呼吸不全、
52歳で亡くなった国民的歌手の美空ひばりさんは、
8歳の時に初舞台を踏み、以後、活躍し続けてきました。
一方、中村メイコさんは2歳の時から名子役として活躍、
幼い頃から芸能界で活躍してきた二人が、
初めて出会ったのはひばりさんが15歳の時の雑誌の対談ででした。
「私たちも普通の女の子みたいに男の子と遊びたいね」
とメイコさんが言うと、
「私はそうは思わないわ。私たちは夢を売るのが商売なの。
ファンの人たちが嫌がることは我慢しなきゃ」
とそれを否定、そんな二人でしたので、
あまり付き合いはなかったそうです。
やがてメイコさんは結婚、芸能界と家庭を両立した生活を、
しかし、ひばりさんは小林旭さんと結婚したものの、
わずか2年で離婚してしまいます。
そんな頃、ひばりさんの母・加藤喜美枝さんが
メイコさんの自宅を訪ねてきます。
彼女はメイコさんに頼みました。
「メイコちゃん、ひばりと家族ぐるみの付き合いをしてあげて欲しいの。
ひばりに家族の温かさを感じさせてあげたいの。
あの子はそれを知らずに生きてきたから…」
幼い頃から、ファンのために歌い続けてきたひばりさんは、
結婚しても、それを知る前に離婚、
家庭の温かさを知らない娘を案じた母の願いでした。
元々世話好きな中村メイコさんでしたので、
美空ひばりさんは彼女のペースに引っ張られる形で、
二人の生涯の関係が始まります。
ある時にはメイコさんが自身のワンピースを取り出して、
ひばりさんに見せて、
次の曲はこれを着たらと勧めたことも。
恥ずかしいので嫌がるひばりさんでしたが、
それでもその姿でジャケット撮影に臨んだようです。
その曲がこの「真っ赤な太陽」。
これは中村メイコさんのものだったんです。
何かあると、夜中でもメイコさんを訪ねてきたひばりさん。
そして眠るのは、メイコさんとメイコさんの夫の間。
「いつもひばりはセンター」だと、
彼女は笑っていたそうです。
まるで仲の良い姉妹のよう。
しかし…
1987年、美空ひばりさんが緊急入院。
それまで腰の激痛に耐えながら、
それを微塵も感じさせない熱唱を続けていましたが、
重度の慢性肝炎、両側大腿骨骨頭壊死と診断され、
療養に専念することとなりました。
「もうひばりは歌えない」
そんな噂が流れる中、翌年彼女は再びステージの上に立ち、
奇蹟のカムバックを見せます。
しかし、この時の彼女は機械を使わないと、
階段を上ることが出来ないほどで、
「完全復活」と評価されたこのステージとは裏腹に、
このコンサート以後、体調悪化が加速していきます。
ある夜、中村メイコさんに1本の電話が。
美空ひばりさんからでした。
しかし、その声はメイコさんが聞き慣れていたはずのものではなく、
初めて聞いたことのないような低い声でした。
「苦しくてリンゴ追分のワンフレーズも歌えない」
慰めの言葉さえも見つからないメイコさんは受話器を置いた後、
「どうしよう…、ひばりちゃんが、ひばりちゃんが…」
と、流れ落ちる涙を止めることが出来ませんでした。
美空ひばりさんは二度とステージに立つことはありませんでした。
あなたに会える、そう思うと
私はもう死ぬことは怖くありません。
あなたはそんなプレゼントまで
私に残してくれました。
私はもう友達は持たないでしょう。
あなたが最高だったから。
待っててね。
美空ひばりさんへの中村メイコさんへの弔辞です。
コント55号で一世を風靡した坂上二郎さん。
天才・萩本欽一さんともに、
お笑い界の頂点を極めました。
その魅力は、欽ちゃんの想定外のフリに、
即興で応える二郎さんにありました。
よく知られた
飛びます 飛びます
も、管制官訳の欽ちゃんが
パイロット役の二郎さんを追い詰めて
焦った中から生まれてきたギャグでした。
2003年、ゴルフ中に二郎さんが脳梗塞で倒れます。
その後、懸命にリハビリに励んだものの、
私たちが彼の姿を見る機会は減っていきました。
ある日、欽ちゃんが二郎さんの元を訪ねます。
それは、二郎さんへ舞台出演のオファーのためでした。
二郎さん自分にはもう無理だ、と断りますが、
欽ちゃんは、
「二郎さんは台詞言わなくていいの。
舞台を歩くだけでいいから」
と言い、実際に舞台を横切るだけで、
お客さんを喜ばせることが出来ました。
しかし、その1年後、彼は帰らぬ人に。
2011年3月10日、享年76。
翌日、大地震が東日本を襲います。
真っ先に二郎さんのいる栃木県那須塩原へ行こうとしていた
欽ちゃんの足を奪いました。
東北新幹線は止まり、それでも在来線と、
タクシーと、そして歩いて二郎さんの斎場まで駆けつけました。
二郎さんに会うために。
しかし、欽ちゃんは棺の中の二郎さんの顔は見なかったそうです。
「私の中に二郎さんは生きているから。
お花を入れる時、足のほうに手を合わせて、
『コント55号最高だったね』と声をかけたんだ」
家族葬だったため、弔辞はありません。
しかし、それでも出棺の際、
笑顔で送ってあげて下さい。
坂上二郎はただいま、飛びます。飛びました。
それが欽ちゃんから、
二郎さんへ送る最高の弔辞となりました。
2007年5月3日、死去、享年75。
亡くなったのは横山ノックさん。
漫画トリオは1960年に
横山ノック、フック、パンチの3人で結成されました。
社会風刺ネタが新しく、
3人のしゃべくり漫才を確立、
次々と新しい笑いのスタイルを生み出し、
漫才界に新風を吹き込みました。
18歳の横山パンチ、後の上岡龍太郎さんを誘い、
元々お笑い志望ではない上岡さんに、
笑いの全てを教えた師匠ともいえる存在がノックさんでした。
人気絶頂の彼らでしたが、
1968年に解散、それはノックさんが
参議院選挙立候補、当選のためでした。
彼は当時異色の議員タレントとして大活躍します。
上岡さんは仕事が激減、
そんな彼に手をさしのべたのはノックさん。
「ラブアタック!」「ノックは無用」など、
ノックさんのボケに毒のある知的な上岡さんがウケ、
彼らの司会する番組は当たりました。
1995年、ノックさんは大阪府知事となります。
その頃の上岡さんは関西一の、
全国でも押しも押されもせぬ名司会者として大活躍していました。
1999年、2期目の当選を狙った選挙の中で、
ノックさんは運動員に強制わいせつをはたらいたとして、
在宅起訴され、知事を辞職します。
この事件により名誉と地位を失ったノックさんは、
二度とスポットライトを浴びる事なく、
2007年、亡くなります。
出会いから47年、ノックさんに教えられ、
ノックさんに助けられた上岡龍太郎さんは、
ノックさんの弔辞にへの想いを弔辞に込めました。
ノックさん
あなたは僕の太陽でした
あなたの熱と光のおかげで僕は育ちました
あなたの暖かさと明るさに包まれて生きてきました
ノックさん
あなたはみんなの太陽でした
あなたが現れるだけでその輪がパッと明るくなりました
あなたが笑顔を見せるだけでみんな心が癒されました
ノックさん
あなたは大きな太陽でした
あなたの前に立つと
自分が如何に些細なことにこだわり
つまらないことに悩み
取るに足らないことで人と争っているか
自分自身の小ささを思い知らされました
ノックさん
あなたは今 西の空を真っ赤に染めて
水平線の向こうに沈んで行こうとしています
でも僕の胸の中には今も真夏の太陽のような
あなたがギラギラと輝いています
あなたと初めて会った昭和35年 1960年8月5日から
最後となった平成18年 2006年4月4日までの思い出の数々が
まるで宝石のようにキラキラと胸いっぱいに詰まっています
六甲のベースキャンプ
ハウスボーイ時代にはサミーと呼ばれ
宝塚新芸座では三田久と名乗り
秋田Kスケから横山ノック 漫画トリオになったノックさん
初めて買ったブルーバード ファンシーデラックスが盗まれ
セドリックからアルファロメオ ジュリアスプリントベローチェ
運転手付きのダッジダートに乗り換えたノックさん
我孫子町から沢ノ町
西宮北口から千里津雲台
桃山台の豪邸から芦屋に移り住んだノックさん
漫才師から参議院議員
大阪府知事から最後は被告人にまでなったノックさん
相方や車や住まいや肩書きはコロコロと変えたけど
奥さんだけは生涯変えなかったノックさん
血の滴るようなTボーンステーキが大好き
あんころ餅や大福餅といった甘いものが大好きで
何より麻雀が大好きだったノックさん
女性が大好きだったノックさん
料理を作るのがうまかったノックさん
麻雀はへたくそだったノックさん
女性を口説くのがうまかったノックさん
お酒は弱かったノックさん
麻雀も弱かったノックさん
女性にも弱かったノックさん
マーロンブランド扮するナポレオンの髪形を真似して
ピンカールしていたノックさん
あの頭で10日に1回散髪に行ってたオシャレなノックさん
進駐軍仕込みの英語が堪能だったノックさん
そのくせカタカナは苦手だったノックさん
人を笑わせるのに自分は泣き虫で
賑やかなことが好きな寂しがり屋で
ありがた迷惑なほど世話焼きで
ああ見えて意外に人見知りで
甘えん坊で頑固で意地っ張りで負けず嫌いで
天真爛漫で子供っぽくて可愛くて
そして いつでも どんなときでも 必ず
僕の味方をしてくれたノックさん
ノックさん
本当にありがとうございました
ノックさん
本当にお疲れ様でした
そして
ノックさん
本当にさようなら
芸人を送るのに涙は似つかわしくありません
どうか不世出の大ボケ 横山ノックを
精一杯の笑顔と拍手で天国に送ってやってください
ノックさんに 献杯
当時、私も上岡さんのこの挨拶では涙しました。
ここまでお書きしてきた弔辞はもちろん、
一部分なんですけれど、
これについては全て番組でも放送されていました。
全文がありましたので、
こちらでも貼らせていただきます。
スタジオではリンゴさんも涙を流されていましたね。
ハイヒールのお二人は生前、
レギュラー番組でノックさんの頭をバシバシ叩いていました。
もちろん、それはノックさんが「叩いてくれ」と仰っていたからで、
ハイヒールのお二人からしてみれば、
大師匠のノックさんであるわけですから。
それでもいつもニコニコされていましたね。
既に引退されていたこの上岡さんの挨拶を「作品」と呼ぶのは、
ノックさんにも上岡さんにも失礼なんですが、
ノックさんが目を付けたその才能がこの言葉を生み出した訳です。
上岡さんを見いだし育てたノックさんも、
その言葉に込められた想いとともに、
それも喜ばれていたのではないかと思います。
何度も観てきた。
そしてその度にお前は生き返ってきたじゃないか。
役者なら生き返って見せろ。
生き返って出てこい
1974年「竜馬暗殺」で原田芳雄さんは
松田優作さんと共演。
松田さんは原田さんに憧れ、
仕草や喋り方、一挙手一投足を真似るようになります。
そして、原田さんも彼を弟のように可愛がりました。
1989年、癌により亡くなります。
そんな原田さんが松田さんへ送った弔辞です。
数々の冗談をありがとう。
いまいち笑えなかったけど。
今日もそうだよ。
ひどいよ、この冗談は。
うん、でもなるべく笑うよ。
清志郎、ありがとう。
2009年に、癌性リンパ管症で亡くなった忌野清志郎さんへの
甲本ヒロトさんの弔辞です。
ながいながい夢だったのに違いないのですが、
いったいどんな夢を見続けておられたのでしょう。
1997年、口腔癌から間質性肺炎を発症し亡くなった星新一さん。
彼とともに、SFが文学として認められていなかった時代から、
ともに戦ってきた"戦友"の筒井康隆さんの言葉。
筒井先生はこの番組のレギュラーです。
その手紙をもらうことがあるとすれば、
人生でたった一度だけ。
それが弔辞です。
今週の番組は
THE ラストメッセージ~人生最期の手紙『弔辞』~
と、弔辞の特集でした。
先生は高平哲郎さん。
元々「今夜は最高」や「笑っていいとも!」、
「オレたちひょうきん族」などに関わってこられた、
放送作家さんで、特にタモリさんとは
彼が芸能界入りする以前からのお付き合い。
作家、劇作家、演出家、編集者でもある彼が
故人への愛を詠んだ弔辞を集めた本、
大弔辞 先輩、友、後輩へ綴られた最後の愛の手
からのお話です。
なお、番組にはありませんでしたが、
この本の中には他に左に故人、敬称略でお書きしておきます。
「植木等 小松政夫」「夏目漱石 芥川龍之介」「高品格 宍戸錠」
「淀川長治 黒柳徹子」「渥美清 倍賞美津子」「柳家小さん 柳家小三治」
「バッキー白片 大橋節夫」「いかりや長介 加藤茶」「神代辰巳 桃井かおり」
「市川崑 岸惠子」「星野哲郎 水前寺清子」「園山俊二 東海林さだお」
「赤塚不二夫 タモリ」「渡辺和博 南伸坊」「荒井注 いかりや長介」
「逸見政孝 山城新伍」「三船敏郎 黒沢明」「川喜多和子 淀川長治」
「三沢光晴 徳光和夫」「手塚治虫 加藤芳郎」中上健次 安岡章太郎」
「青島幸男 谷啓」「青空千夜 リーガル天才」「小池朝雄 稲垣昭三」
「成田三樹夫 菅原文太」「岩川武大 丸谷才一」「池波正太郎 山口瞳」
「東野英治郎 森繁久弥」「杉村春子 新藤兼人」「服部良一 吉田正」
「原田芳雄 石橋蓮司」「西村潔 黒澤満「芥川龍之介 菊池寛」
「フランキー堺 小沢昭一」「今村昌平 北村和夫」「石原裕次郎 勝新太郎」
「滝田ゆう 長部日出雄」「南利明 由利徹」「横澤彪 山崎努」
「谷啓 犬塚弘」「上村一夫 阿久悠」「辰巳柳太郎 島田正吾」
「宇野重吉 滝沢修」「寺山修司 唐十郎」「野沢那智 白石冬美」
「景山民夫 高平哲郎」
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1989年、間質性肺炎による呼吸不全、
52歳で亡くなった国民的歌手の美空ひばりさんは、
8歳の時に初舞台を踏み、以後、活躍し続けてきました。
一方、中村メイコさんは2歳の時から名子役として活躍、
幼い頃から芸能界で活躍してきた二人が、
初めて出会ったのはひばりさんが15歳の時の雑誌の対談ででした。
「私たちも普通の女の子みたいに男の子と遊びたいね」
とメイコさんが言うと、
「私はそうは思わないわ。私たちは夢を売るのが商売なの。
ファンの人たちが嫌がることは我慢しなきゃ」
とそれを否定、そんな二人でしたので、
あまり付き合いはなかったそうです。
やがてメイコさんは結婚、芸能界と家庭を両立した生活を、
しかし、ひばりさんは小林旭さんと結婚したものの、
わずか2年で離婚してしまいます。
そんな頃、ひばりさんの母・加藤喜美枝さんが
メイコさんの自宅を訪ねてきます。
彼女はメイコさんに頼みました。
「メイコちゃん、ひばりと家族ぐるみの付き合いをしてあげて欲しいの。
ひばりに家族の温かさを感じさせてあげたいの。
あの子はそれを知らずに生きてきたから…」
幼い頃から、ファンのために歌い続けてきたひばりさんは、
結婚しても、それを知る前に離婚、
家庭の温かさを知らない娘を案じた母の願いでした。
元々世話好きな中村メイコさんでしたので、
美空ひばりさんは彼女のペースに引っ張られる形で、
二人の生涯の関係が始まります。
ある時にはメイコさんが自身のワンピースを取り出して、
ひばりさんに見せて、
次の曲はこれを着たらと勧めたことも。
恥ずかしいので嫌がるひばりさんでしたが、
それでもその姿でジャケット撮影に臨んだようです。
その曲がこの「真っ赤な太陽」。
これは中村メイコさんのものだったんです。
何かあると、夜中でもメイコさんを訪ねてきたひばりさん。
そして眠るのは、メイコさんとメイコさんの夫の間。
「いつもひばりはセンター」だと、
彼女は笑っていたそうです。
まるで仲の良い姉妹のよう。
しかし…
1987年、美空ひばりさんが緊急入院。
それまで腰の激痛に耐えながら、
それを微塵も感じさせない熱唱を続けていましたが、
重度の慢性肝炎、両側大腿骨骨頭壊死と診断され、
療養に専念することとなりました。
「もうひばりは歌えない」
そんな噂が流れる中、翌年彼女は再びステージの上に立ち、
奇蹟のカムバックを見せます。
しかし、この時の彼女は機械を使わないと、
階段を上ることが出来ないほどで、
「完全復活」と評価されたこのステージとは裏腹に、
このコンサート以後、体調悪化が加速していきます。
ある夜、中村メイコさんに1本の電話が。
美空ひばりさんからでした。
しかし、その声はメイコさんが聞き慣れていたはずのものではなく、
初めて聞いたことのないような低い声でした。
「苦しくてリンゴ追分のワンフレーズも歌えない」
慰めの言葉さえも見つからないメイコさんは受話器を置いた後、
「どうしよう…、ひばりちゃんが、ひばりちゃんが…」
と、流れ落ちる涙を止めることが出来ませんでした。
美空ひばりさんは二度とステージに立つことはありませんでした。
あなたに会える、そう思うと
私はもう死ぬことは怖くありません。
あなたはそんなプレゼントまで
私に残してくれました。
私はもう友達は持たないでしょう。
あなたが最高だったから。
待っててね。
美空ひばりさんへの中村メイコさんへの弔辞です。
***********************************************
コント55号で一世を風靡した坂上二郎さん。
天才・萩本欽一さんともに、
お笑い界の頂点を極めました。
その魅力は、欽ちゃんの想定外のフリに、
即興で応える二郎さんにありました。
よく知られた
飛びます 飛びます
も、管制官訳の欽ちゃんが
パイロット役の二郎さんを追い詰めて
焦った中から生まれてきたギャグでした。
2003年、ゴルフ中に二郎さんが脳梗塞で倒れます。
その後、懸命にリハビリに励んだものの、
私たちが彼の姿を見る機会は減っていきました。
ある日、欽ちゃんが二郎さんの元を訪ねます。
それは、二郎さんへ舞台出演のオファーのためでした。
二郎さん自分にはもう無理だ、と断りますが、
欽ちゃんは、
「二郎さんは台詞言わなくていいの。
舞台を歩くだけでいいから」
と言い、実際に舞台を横切るだけで、
お客さんを喜ばせることが出来ました。
しかし、その1年後、彼は帰らぬ人に。
2011年3月10日、享年76。
翌日、大地震が東日本を襲います。
真っ先に二郎さんのいる栃木県那須塩原へ行こうとしていた
欽ちゃんの足を奪いました。
東北新幹線は止まり、それでも在来線と、
タクシーと、そして歩いて二郎さんの斎場まで駆けつけました。
二郎さんに会うために。
しかし、欽ちゃんは棺の中の二郎さんの顔は見なかったそうです。
「私の中に二郎さんは生きているから。
お花を入れる時、足のほうに手を合わせて、
『コント55号最高だったね』と声をかけたんだ」
家族葬だったため、弔辞はありません。
しかし、それでも出棺の際、
笑顔で送ってあげて下さい。
坂上二郎はただいま、飛びます。飛びました。
それが欽ちゃんから、
二郎さんへ送る最高の弔辞となりました。
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2007年5月3日、死去、享年75。
亡くなったのは横山ノックさん。
漫画トリオは1960年に
横山ノック、フック、パンチの3人で結成されました。
社会風刺ネタが新しく、
3人のしゃべくり漫才を確立、
次々と新しい笑いのスタイルを生み出し、
漫才界に新風を吹き込みました。
18歳の横山パンチ、後の上岡龍太郎さんを誘い、
元々お笑い志望ではない上岡さんに、
笑いの全てを教えた師匠ともいえる存在がノックさんでした。
人気絶頂の彼らでしたが、
1968年に解散、それはノックさんが
参議院選挙立候補、当選のためでした。
彼は当時異色の議員タレントとして大活躍します。
上岡さんは仕事が激減、
そんな彼に手をさしのべたのはノックさん。
「ラブアタック!」「ノックは無用」など、
ノックさんのボケに毒のある知的な上岡さんがウケ、
彼らの司会する番組は当たりました。
1995年、ノックさんは大阪府知事となります。
その頃の上岡さんは関西一の、
全国でも押しも押されもせぬ名司会者として大活躍していました。
1999年、2期目の当選を狙った選挙の中で、
ノックさんは運動員に強制わいせつをはたらいたとして、
在宅起訴され、知事を辞職します。
この事件により名誉と地位を失ったノックさんは、
二度とスポットライトを浴びる事なく、
2007年、亡くなります。
出会いから47年、ノックさんに教えられ、
ノックさんに助けられた上岡龍太郎さんは、
ノックさんの弔辞にへの想いを弔辞に込めました。
ノックさん
あなたは僕の太陽でした
あなたの熱と光のおかげで僕は育ちました
あなたの暖かさと明るさに包まれて生きてきました
ノックさん
あなたはみんなの太陽でした
あなたが現れるだけでその輪がパッと明るくなりました
あなたが笑顔を見せるだけでみんな心が癒されました
ノックさん
あなたは大きな太陽でした
あなたの前に立つと
自分が如何に些細なことにこだわり
つまらないことに悩み
取るに足らないことで人と争っているか
自分自身の小ささを思い知らされました
ノックさん
あなたは今 西の空を真っ赤に染めて
水平線の向こうに沈んで行こうとしています
でも僕の胸の中には今も真夏の太陽のような
あなたがギラギラと輝いています
あなたと初めて会った昭和35年 1960年8月5日から
最後となった平成18年 2006年4月4日までの思い出の数々が
まるで宝石のようにキラキラと胸いっぱいに詰まっています
六甲のベースキャンプ
ハウスボーイ時代にはサミーと呼ばれ
宝塚新芸座では三田久と名乗り
秋田Kスケから横山ノック 漫画トリオになったノックさん
初めて買ったブルーバード ファンシーデラックスが盗まれ
セドリックからアルファロメオ ジュリアスプリントベローチェ
運転手付きのダッジダートに乗り換えたノックさん
我孫子町から沢ノ町
西宮北口から千里津雲台
桃山台の豪邸から芦屋に移り住んだノックさん
漫才師から参議院議員
大阪府知事から最後は被告人にまでなったノックさん
相方や車や住まいや肩書きはコロコロと変えたけど
奥さんだけは生涯変えなかったノックさん
血の滴るようなTボーンステーキが大好き
あんころ餅や大福餅といった甘いものが大好きで
何より麻雀が大好きだったノックさん
女性が大好きだったノックさん
料理を作るのがうまかったノックさん
麻雀はへたくそだったノックさん
女性を口説くのがうまかったノックさん
お酒は弱かったノックさん
麻雀も弱かったノックさん
女性にも弱かったノックさん
マーロンブランド扮するナポレオンの髪形を真似して
ピンカールしていたノックさん
あの頭で10日に1回散髪に行ってたオシャレなノックさん
進駐軍仕込みの英語が堪能だったノックさん
そのくせカタカナは苦手だったノックさん
人を笑わせるのに自分は泣き虫で
賑やかなことが好きな寂しがり屋で
ありがた迷惑なほど世話焼きで
ああ見えて意外に人見知りで
甘えん坊で頑固で意地っ張りで負けず嫌いで
天真爛漫で子供っぽくて可愛くて
そして いつでも どんなときでも 必ず
僕の味方をしてくれたノックさん
ノックさん
本当にありがとうございました
ノックさん
本当にお疲れ様でした
そして
ノックさん
本当にさようなら
芸人を送るのに涙は似つかわしくありません
どうか不世出の大ボケ 横山ノックを
精一杯の笑顔と拍手で天国に送ってやってください
ノックさんに 献杯
***********************************************
当時、私も上岡さんのこの挨拶では涙しました。
ここまでお書きしてきた弔辞はもちろん、
一部分なんですけれど、
これについては全て番組でも放送されていました。
全文がありましたので、
こちらでも貼らせていただきます。
スタジオではリンゴさんも涙を流されていましたね。
ハイヒールのお二人は生前、
レギュラー番組でノックさんの頭をバシバシ叩いていました。
もちろん、それはノックさんが「叩いてくれ」と仰っていたからで、
ハイヒールのお二人からしてみれば、
大師匠のノックさんであるわけですから。
それでもいつもニコニコされていましたね。
既に引退されていたこの上岡さんの挨拶を「作品」と呼ぶのは、
ノックさんにも上岡さんにも失礼なんですが、
ノックさんが目を付けたその才能がこの言葉を生み出した訳です。
上岡さんを見いだし育てたノックさんも、
その言葉に込められた想いとともに、
それも喜ばれていたのではないかと思います。