先週の番組の記事からの続きです。
ビーバップ!ハイヒール 「スーパースターに挑み続けた天才No.2物語」 その1
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11523533695.html
この春、長嶋茂雄さんが国民栄誉賞を受賞、
まばゆいばかりの輝きで、
その活躍は今も語り継がれています。
ただ、もう一人、
同時に巨人入りした三塁手のことが
話題にのぼることはほとんどありません。
長嶋茂雄が東京六大学リーグで通算本塁打記録を塗り替えた1957年、
関西六大学野球でも本塁打で新記録の男がいました。
難波昭二郎
彼は
4番 サード
長嶋と同じでした。
それぞれ東西の大学リーグを代表する選手だったことから、
東の長嶋、西の難波
と言われるようになります。
両者ともプロ入り後の活躍も期待されていましたが、
当時は自由競争の時代、
ドラフト制度はなく、球団と選手の間で
入団する球団が決められていました。
難波昭二郎は中日入りが内定、
一方の長嶋茂雄は数球団が名乗りを上げる中、
南海が有力視されていました。
読売新聞社社長・正力松太郎は、
長嶋が獲得出来ないことから、
難波に目を付けます。
難波を口説く命を受けたのは、
読売新聞の坂本幸夫。
彼は難波の大学の先輩で、かねてから難波の面倒を見ていました。
難波は先輩の誘いを断ります。
彼は既に中日入りを決めていたからです。
繰り返し口説いても、
彼の返事は変わりません。
坂本は何度も彼の元に足を運び、
「巨人の優勝のためには君の力が必要なんだ」
そう訴え続けました。
坂本の熱意に、難波は心動かされます。
わかりました。巨人に入団します
難波は中日入りを断り、巨人入団が決定。
しかし、南海入りとされていた長嶋が巨人入りを表明、
どちらも三塁手、ポジションが被れば、
一方はベンチか二軍です。
難波と長嶋のどちらかの才能が
控えで眠ることになります。
この事態に坂本は難波の元へ行き、
難波、元通り中日に入団してくれ
と頼みます。しかし、難波の返事は
坂本さん、僕は巨人に行きます。
最初から背中を向けて長嶋から逃げてたら、
これから厳しいプロの世界で生きていけないでしょ
というものでした。
こうして、当時の野球界最高の才能である難波と長嶋が、
一つのチーム、巨人に入団してしまうことになりました。
キャンプでは長嶋は守備力が、
難波は長打力が注目されます。
開幕戦のスターティングオーダーでは、
三番 サード 長嶋
となり、難波はベンチスタート。
長嶋のこの試合の成績は「4打席4三振」。
難波にも最終回に代打での出番がありましたが、
こちらも三振で終わっています。
翌日の新聞では、
長嶋の豪快な空振りが注目され、
難波の代打出場について触れた新聞はほとんどありませんでした。
その後、長嶋はレギュラー獲得、
打率.305、本塁打29本、92打点、
新人王で本塁打王、打点王にもなります。
長嶋はスター選手でした。
一方の難波の1年目は
打率.255、本塁打2本、打点5と、
長嶋の影に隠れ、代打のみでの出場、
目立った活躍は出来ませんでした。
もしも、二人が違うチームに入っていたなら?
難波昭二郎の長嶋に挑んだプロ野球人生は、
1962年に引退、わずか5年で幕を閉じました。
長嶋は球界に数々の記録と伝説を残し、
1974年に引退、
この時の引退試合を完全収録したレコードまで発売されました。
この空前の大ヒットレコードを手がけたのが、
かつてのライバル、
難波昭二郎
その人なのです。
彼はプロ野球引退後、
パイオニアに入社、ワーナー・パイオニアに移籍後、
ディレクター、プロデューサーとして活躍、
この頃、長嶋関連の音源販売権を取得、
難波がライバルの最後の花道を飾ることになるのでした。
2009年8月、心不全のため死去、
享年74。
よきライバルであり、素晴らしい友人でもありました。
東の長嶋、西の難波と新聞で並び称される事もありましたが、
個人的には難波さんの方が実力は上だと思っていました。
難波昭二郎が亡くなった時の長嶋茂雄の言葉です。
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ビーバップ!ハイヒール「スーパースターに挑み続けた天才No.2物語」 難波昭二郎と長嶋茂雄
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