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コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~ 藤原道長 -この世をば わが世とぞ思ふ-

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この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
  欠けたることも なしと思へば


この世を我が世として、
満月の如く欠けたものなど何もない、
こんな即興歌が残っている藤原道長です。
この番組を記事にするのは3回目ですが、
いずれも藤原氏が権力を握っていた時代で、
中でも特に藤原氏全盛期がこの道長の時代です。

39歳の時にトップの役職、左大臣となりますが、
No.2、No.3も藤原氏、
その下の大納言3人全員藤原氏、
その下の中納言6人中4人が藤原氏、
その下の参議6人(の時は)中5人が藤原氏でほぼ独占という有様。
藤原氏は天皇の外戚、
つまり、天皇家に娘を嫁がせるなどして、
そこに子が生まれ、その子が天皇となると、
その天皇にとって藤原氏のその人は外祖父となります。
道長の場合は、後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の外祖父でした。

権勢を極めた藤原道長でしたが、
人となりはどうだったのでしょうか?
最近ユネスコから平泉、富士山が、世界文化遺産に、
小笠原諸島が世界自然遺産に登録されて話題になりましたが、
彼が遺した「御堂関白記」は、
今年の6月18日に世界記憶遺産(世界の記憶)に登録されました。
歴史的に貴重な文書や絵画を対象としたユネスコの世界記憶遺産ですが、
千年前の権力者が直筆書き残した日記は世界に例がなく唯一、
それだけ御堂関白記がいかに貴重だということになります。
(道長は関白になったことはないため後の世の呼称)
ここからようやく、番組の内容です。


道長は天皇に○と頼まれていたのに
○○○にした


「權記」より。

去る九日の早朝、一條天皇のお墓の造営場で、
道長さんが、ぼそっと
「そういえば生前、天皇は
『僕が死んだら父のお墓の隣に土葬してね』って
言うてはったわ。
全然憶えてへんかった。今、思い出した。
もうどうしようもないわなぁ…
焼いてもうたもん」と言っていた。


参議などを勤めた藤原行成の記録です。
こはにわ先生によりますと、
どうやら、この道長という人は、
うっかりミスが多い人だったらしく、
何かの用事があって役人を呼んでおいて、
役人が目の前に来た時にはその用事が何であったかを忘れている、
そんなことが珍しくない人だったようで。
前出の御堂関白記も、
うっかり屋さんの道長が忘備録やメモ的に、
そぞろ書いていた日記だったといえるようです。
ただし、政治的手腕は高いものがあったとされ、
だからこそ、彼のミスがより目立つものとなったのかもしれません。

以上、

道長は天皇に土葬してと頼まれていたのに
うっかり火葬にした


でした。


道長は息子の○○に
○○して日記に書き込んだ


「御堂関白記」より。

七月八日、五男の教通が、突然、
「昨日の夜、星を見てたら、
彦星と織姫星がゆっくりと近づき合っとった!
でも、雲がかぶって、最後にどうなったかは見られなかった」
と言い出したので、
「あーそれ、昔から「あるある」やで。
まぁ、でも最近はあんまり聞かんなぁ…」と答えたが、
驚いたなぁ…


道長は占星術が好きで星を見るのが好きだったようですね。
それで息子の教通がこんな話をしていて、
驚きつつ、それを見たという教通がうらやましかったものの、
とりあえず「そんなんようある話やわ」と
知ったかぶりをしたという話を、
自ら日記に書き残しているようですね。
ある時の会議の席順で
「大臣は北向いて座るのが正しい」と言い出した道長、
儀式担当者が来たので
「そうやろ。北向かなあかんやろ」と同意を求めると、
担当者は「そんなことは記録にない」とあっさり否定、
それまで道長に媚びて北向きに同意し、
異議を唱えていた連中を非難していた連中を捕まえ、
道長は「ほら、見てみい。お前が間違えてるからや」と
なすりつけたという話も。

こんな人間味のある記述が多数見られるらしい御堂関白記ですが、
彼はこれが恥となることはわかっていたようで、亡くなる前に
「この日記だけは残さんといてくれ」と遺言しているようです。
ただ、道長様の物を燃やしてしまうなんて…、
ということで現在に伝わっています。



この御堂関白記は現代でも出版をされていて、
人間くさすぎる道長さんに興味が湧きましたので、
いつか簡単なものを選んで読んでみたいですね。




以上、

道長は息子のホラ話を真に受け
知ったかぶりして日記に書き込んだ


でした。


道長は晩年、○を恐れて
1日○回○○○た


「御堂関白記」より。

寛仁五(1021)年九月
一日 念仏読みスタート 11万回
二日 十五万回
三日 十四万回
四日 十三万回
五日 十七万回


原文には"万回"ではなく"万遍"とあります。
これで私が思い出すのはこの間も近くを通ったんですが、
京都の左京区に百万遍知恩寺という法然上人ゆかりのお寺のことです。



知恩寺ではこんな巨大な念珠を皆でぐるぐる回して、
念仏を唱えるんですけれど、
一般に百万遍念仏と呼ばれるものは、
念珠1周で○○回念仏を唱えたことになるらしく、
道長の場合は、1周1万回相当の念珠だったのではないか、
そんなふうにも考えられています。
1日は86400秒。
この間に十七万回の念仏を唱えようとすると、
0.5秒で1回、1秒で2回になってしまいますので
無理な話です。

以上、

道長は晩年、恨みを恐れて
1日17万回念仏を唱えた


でした。



少し前の教科書では
(というか私が習ったのもそうだったんでしょうけれど、
私は全く授業に参加していなかったのでよくわからないだけ)、
藤原氏の全盛期はこの藤原道長とその長男・頼通だと
されていたそうです。
頼通は10円玉でお馴染みの平等院で有名ですね。


(現在は改修中)

頼通には跡継ぎがいなかったため、
弟・教通に継がせます。
現在は頼通の時代に藤原氏の権勢は下り坂とされているようですが、
それが決定的となったのは教通の時代で、
上で父親に「彦星・織姫星大接近!」と
ありもしないことを喋っていた五男です。
彼の代になると、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位します。
それを防げなかったのが藤原氏を衰えさせることなるんですが、
その後が白河天皇になります。

大河ドラマ 平清盛 第二話「無頼の高平太」 その背景 ~白河法皇の生涯 その1~
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11138802543.html

父の代から削いでいた藤原氏の力を
さらに奪い去ったのは白河院の時代でした。

たまたま、今、天皇家の歴史に興味があって、
読書中なんですが、意外なほど、
それを知るための本があまりないんですよね。
とりあえず、「世界一受けたい授業」でもお馴染みの



河合敦先生の本が見つかりましたので、
読みはじめております。
まだ藤原氏隆盛の基礎を築いた不比等の時代なんですけれど、
この後の藤原氏と天皇家の関わりも楽しみです。

あと、我が寝屋川市のマスコットである鉢かづき姫。
これも藤原氏の話なんですよね。
寝屋川市がなぜ寝屋川なのか、
そんなお話をすることもあるかもしれません。



ねてしてタペ





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