ちょうど、今週の番組は終了しましたが、
今夜は先週の番組から。
偉大なるパイオニア!世界を相手に戦った知られざるSAMURAI
講師はテレビなどでお馴染みの
作家でスポーツライターの玉木正之さんでした。
現在、様々な競技で
世界を舞台に戦っている日本人が多数います。
スポーツの分野で、彼らの魁となった人たちのことを
私たちはあまり知りません。
恵まれない環境の中、世界を相手に戦った侍たちのお話です。
中村寅吉
1915年神奈川県横浜市の貧しい農家に生まれた彼は、
家計を助けるため、近所のゴルフ場で
キャディのアルバイトを始めます。
この時、彼は初めてゴルフというスポーツに触れました。
当時のゴルフは、金持ちの道楽であり、
庶民である彼にはクラブなどの用具を買うお金はありません。
そこで木の幹を削り、クラブを自作します。
さらに、木の板に釘を打ち付け、
それを靴にくくりつけることでスパイクとしました。
近所の空き地で猛練習、
その成果が実り、19歳の時にプロテストに合格します。
ようやく、ゴルフクラブも買うことが出来るように。
その後も血の滲むように努力を重ね、
1957年、42歳の時に日本プロゴルフ選手権優勝、
同年、第5回カナダカップ(現在のワールドカップ)で
小野光一と組んで日本代表として出場、
飛距離では到底叶わないアメリカなどに対し、
彼は磨き上げた小技で勝負、
中村・小野組が優勝、日本が初めて国別対抗戦で勝利しました。
この時、日本に広くゴルフというスポーツが認知されることとなります。
樋口久子、青木功一、尾崎将司、岡本綾子、宮里藍などなど、
世界で活躍した数々の日本人選手の躍進は、
中村寅吉の奮闘があったればこそなのかもしれません。
なお、木を削ってゴルフクラブを自作するなど、
マンガ「プロゴルファー猿」のモデルにだとも言われています。
佐藤次郎
日本のテニス界のパイオニアである彼の戦績は
とても華やかなものです。
4大大会だけを見てみても、
全豪オープンベスト4、
全仏オープンは2回のベスト4、
全英オープンも2回のベスト4。
これらシングルに加え、
ダブルスでは全豪と全英に準優勝があります。
世界ランキングは最高で3位、
日本テニス史上の伝説のプレイヤーなのが彼です。
1908年群馬県長尾村生まれ。
責任感が強く、頑固で生真面目な少年だったそうです。
小学4年生の時にテニスと出会った彼は、
たちまちその魅力に取りつかれ、
その生真面目さから、
必死にテニスに打ち込むようになります。
元来の手首の強さもあり、
実力を着実に付けていきました。
強打 佐藤次郎
として知られるようにもなります。
そんな彼を心配していたのが
彼の母だったようです。
特に彼女が気がかりだったのが、
彼の生真面目さ、責任感の強さだったのです。
1930年、早稲田大学に入学、
全日本テニス選手権でシングルス優勝、
全日本ランキング1位に。
同年の全仏選手権で準決勝に進出し、
世界ランキング9位となりました。
翌年のデビスカップのメンバーに選出。
デビスカップは男子テニスにおける国別対抗戦で、
シングルス4試合、ダブルス1試合で勝敗を決めています。
デビスカップは国別対抗戦であることから、
当時の日本ではウインブルドンで勝つことよりも、
はるかに重要だとされていたんです。
この年の日本は3回戦まで順調に駒を進め、
ここで勝てば日本初のベスト4となります。
絶対に勝つ
それが日本代表の決意でした。
しかし、佐藤はこの時、原因不明の腹痛に襲われてしまいます。
その痛みから彼はプレイに精彩を欠き、
この年の日本のデビスカップはここで敗退することに。
そんな佐藤でしたが、なんとその1週間後には、
ウインブルドンで単複ともベスト4に進出、
翌年のウインブルドンでもベスト4、
彼の実力は世界でも通用する確かなものでした。
そして迎えるデビスカップ。
前回の雪辱を果たしてくれるものと、
日本国内皆が期待していました。
しかし、またしても彼は腹痛に悩まされます。
準決勝で敗退し、国民の期待を裏切った…、
彼はそう感じていたのでしょうか。
国のために勝ちたい――
彼ほど、そう強く願っていた選手は
他にいなかったかもしれません。
彼に期待されていたのは、日本の優勝。
責任感の強い彼です。
彼は日本のエースです。
しかし、なぜかデビスカップの大事な試合になると、
胃のあたりの痛みに苦しめられてしまいます。
それでも彼は、
次こそ、絶対に勝たなければ
そう決意していたのでした。
次の年の1933年、全英ダブルスで日本人初の決勝進出、
この時に世界ランク3位となりました。
またテニス界の英雄に日本中が沸きました。
今度こそ、佐藤はやってくれる。
今度こそ、日本はデビスカップで世界一に、と。
万が一、またデビスカップで
負けるようなこどがあれば、
生きて故郷の土を踏まず
3度目のデビスカップに、
彼は決死の覚悟で臨みます。
鬼気迫る彼のプレーに敵はなく、
怒濤の勢いで勝ち進んで次は準決勝、
相手は当時世界一のオーストラリア。
しかし、対戦相手は佐藤にとって格下のまだ17歳。
誰もが佐藤の勝利を確信していましたが…、
三度の腹痛に襲われた彼は敗れてしまい、
他の選手が巻き返すものの、
日本はここで敗退となりました。
日本庭球協会は佐藤を戦犯として痛烈に批判、
彼はこのデビスカップを最後に、
全ての大会を辞退してしまうのでした。
そんな佐藤の心の支えとなっていのが、
同じくテニス選手で創刊されたばかりの雑誌「テニスファン」の記者、
岡田早苗でした。
生真面目で何においても一所懸命に打ち込む彼は、
彼女にプロポーズ、
大学卒業を待って1年後に結婚することを約束します。
テニスと縁を切った彼は関西に就職口も見つけ、
彼女との幸せな生活を夢見る彼の元へ1本の電話が。
それは、デビスカップへの招集でした。
当時の日本庭球協会は、資金集めのために、
まだ人気の衰えない彼の名前を
選手派遣基金の広告塔として使っていて、
協会としては彼を呼ばない訳にはいかないという、
実に身勝手な話だったようです。
さすがに彼は断固として辞退する決意を伝えに向かいますが、
協会は必死に彼を説得、
「日本中が君に期待している」
「日本のためだ」
などと粘られて、最後は佐藤が折れました。
テニスとは人を生かす戦争なり
ラケットは銃でありボールは弾丸であります
当時のインタビューで彼はそう話しています。
1934年3月20日、佐藤次郎たち代表選手たちが
アムステルダムへ向けて船に乗り込みます。
船がシンガポールに寄港した時には、
彼は下船して日本に帰ろうとしました。
もう既に、彼は恐怖感に支配されていたのです。
仲間に制止された後、
彼はただ一人、船室に閉じこもりっきりに。
4月5日、マラッカ海峡にて投身自殺。
享年26。
彼が最後に船室で聞いていたのが
婚約者・早苗が好きだった曲、
Have You Ever Been Lonely
「孤独だったことはあるかい?」
日本テニス史上、最高のプレイヤーといえば、
彼なのでしょう。
昨年の全豪では、錦織圭がベスト16に進んでいます。
この時、
佐藤次郎以来、日本人80年ぶり全豪3勝
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2012/01/22/kiji/K20120122002479210.html
という見出しの記事が出ています。
また、今年の全仏では、
錦織、ナダルに敗れ8強ならず 全仏テニス
http://www.nikkei.com/article/DGXNSSXKB0927_T00C13A6000000/
日本男子で1933年に4強入りした佐藤次郎以来80年ぶりの8強入りはならなかった。
と。
彼の活躍で、今、
世界一に最も近かった日本人テニスプレイヤー、
佐藤次郎の偉大さが再認識されています。
…続きます。
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