先週の番組は上杉謙信でした。
昨夜の記事を作る時に、Wikipediaも参照しましたが、
謙信がらみのページは謙信びいきの編集が多く見られ、
それだけ、現代人を惹きつける人物なのかもしれません。
手取川の戦いがあったとされるのは、
1577年9月ですけれど、翌年3月には亡くなっているんですね。
謙信は将軍と一緒にせ、
まくっていた
まくっていた
近衛前嗣書状より
ここ最近、室町幕府の足利義輝様と謙信さんが、
度々私の屋敷で、華奢な美少年を大勢集めて、
朝まで大酒を飲んで盛り上がっておられます。
思うに、謙信さん、あれはかなりの美少年好きですわ。
ちなみに今夜も、うちの親父共々、
義輝様と謙信さんに誘われましたが、
昨夜もお二人に付き合い、オールで二日酔いなので、
私はドロンされていただきました。
近衛前嗣という名を調べてみましたら、
関白左大臣や太政大臣を務めた近衛前久(さきひさ)が
それ以前に名乗っていた名前のようです。
こはにわ先生によりますと、
ここで注目すべきなのは、
征夷大将軍が謙信を接待しているという点なんだそうです。
彼の軍事力が必要だったんですね。
それと、この話と、
謙信自身が女断ちをしていたという事実を捉えて、
だから、彼が男色の趣味があったと
決めつけるものでもないようです。
まあ、この時代、武将の男色は
珍しいものではなかったので
そうであったとしても、
だから何だということではありませんが。
以上、
謙信は将軍と一緒に美少年を侍らせ、
大酒飲んでオールで遊びまくっていた
でした。
謙信は謀反がとした
「関八州古戦録」より
和田喜兵衛は群馬・高崎城主・和田兵衛大夫の弟だったが、
若い頃から上杉謙信に仕えていた。その喜兵衛から
「兄・兵衛大夫が武田信玄に内通し、謀反を企んでいます」
という情報が、同僚の小野伝助を通じ謙信へ伝わった。
これを聞いた謙信は、早速高崎城へ出陣。
ところがその道中、鳥川という所で喜兵衛が現れ、
「兄の謀反は私の聞き違いでした!ウソです!
しかも私がチクったのが兄にバレて、エラいことになり、
逃げてまいりました」と言う。これを聞いた謙信は
「そんなデマで出陣させるとは何事や!」と激怒!
喜兵衛と小野伝助をまとめて成敗した。そして、
「よっしゃ! このまま高崎城、攻めたろ!」
火のない所に煙は立たぬって言うし、
後のことは、それから考えよう」とそのまま突撃!
(中略)
高崎城をガンガンに攻めたものの、兵衛大夫も必死に抵抗。
そのうち謙信も、軍勢もクタクタになったので
城の外に放火し、早々に引き上げました。
和田兵衛大夫という人も一角の人物であったようで、
謙信も火を放って引き上げるのが精一杯だったみたいです。
越後という土地は謙信以前から小領主が乱立していて、
非常にまとまりにくい土地柄でした。
謙信は数々の戦を重ねてきていますが、
考え方次第では、敵を設定することで、
越後国内をまとめる意図があったのかもしれません。
この件については、元々高崎の地が欲しかったので、
デマだという新情報を聞いていないことにしたかったのかも。
以上、
謙信は謀反がデマだとわかったのに、
「火のない所に煙は立たず」と無理矢理出撃した
でした。
ここで突然、こんなコーナーを。
上杉謙信の「俺が軍神だ!」伝説!
・敵に間近から鉄砲を撃たれたのに微動だにせず!
部下も動けないので撃たれ放題になった!
・ケンカする部下二人を止めずにまとめて成敗!
ついでに「ひどいでしょ!」と言った部下も成敗!
・「神です」と紹介された大蛇を「蛇やろ!」と成敗!
その日の夜高熱で倒れた。
鉄砲を撃たれた話では、至近距離からの発砲にもかかわらず、
謙信は弁当を食べていたそうです。
家臣たちは逃げられず、射殺された、と。
何かと迷惑な人ではあります。
謙信が毘沙門天の化身を名乗ったきっかけは
「名将言行録」より
上杉家では、重大な事を決済する際は、毘沙門堂に謙信以下
重臣一同が集まり成功を祈願するのが仕来りだった。
ある時、隣の国で一揆が勃発。急遽情報収集のため、
現地にスパイほを派遣することになった。仕来りどおり、
成功祈願のため、毘沙門堂に向かおうとする重臣に謙信は、
「こんな急ぎの時に、毘沙門堂に行っている暇あらへん!
今すぐこの場で、俺に向かって成功祈願せえ!」と言った。
しかし、重臣たちは「仕来りと違う」と反対。謙信は
「あのなあ、俺がおっての毘沙門天やん!
俺がおれへんかったら、毘沙門天も糞もあれへん。
だいたい、俺が毘沙門天を百回拝んだら、
向こうも五十回か三十回くらいは俺を拝んでるはずや!
さあ、俺を毘沙門天や思って、早よ祈願せえ!」と言った。
これを聞いて重臣たちも謙信に服し、
スパイに祈願させて、隣の国に送り出した。
よくわからない理窟ではありますが、
時間の都合を優先したのでしょう。
現実主義という点では、
高崎城の一件もその一面なのかもしれません。
以上、
毘沙門天の化身を名乗ったきっかけは
時間がなかったから
でした。
続いて、「ラジオ歴史堂」から。
他国の勇猛な武士の肖像画を描かせ、
それを眺めて楽しむという変わった趣味があった
これについての解説はありませんでした。
ご飯にお湯をかけてサラサラと食べていたところに
武田信玄の死を知らされご飯を噴き出すほど驚いた
謙信が春日山城で湯漬け飯を食べていたところ、
北条氏政から信玄の死を知らされ、
飯を吹き出し、箸を投げ捨て、
「英雄とはこの人のことだ。関東武士の柱を失った」
と、信玄の死を悼んだとのことです。
謙信自身は、七尾城攻略の翌年、
遠征の支度をしていた時に、急に倒れて
そのまま死を迎えています。
脳溢血という説が有力ですが、
はたして、彼はどこで戦うつもりだったのでしょうか?
上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)/乃至 政彦
¥935
Amazon.co.jp
上杉謙信 (SPコミックス)/岡村 賢二
¥550
Amazon.co.jp
関八州古戦録 上 (原本現代訳 28)/槙島 昭武
¥1,050
Amazon.co.jp
関八州古戦録 (下) (原本現代訳 (29))/槙島 昭武
¥1,050
Amazon.co.jp
¥935
Amazon.co.jp
上杉謙信 (SPコミックス)/岡村 賢二
¥550
Amazon.co.jp
関八州古戦録 上 (原本現代訳 28)/槙島 昭武
¥1,050
Amazon.co.jp
関八州古戦録 (下) (原本現代訳 (29))/槙島 昭武
¥1,050
Amazon.co.jp