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歴史秘話ヒストリア 「看護婦が見た世界大戦の真実」 その1

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ビーバップ!ハイヒール 「今こそ知っておきたい! 赤十字誕生物語」 その2
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10895998549.html

上の記事では、日本赤十字社誕生などのお話をお書きしていますが、
前回のヒストリアのお話は
日赤の看護婦たちが第一次世界大戦下のパリに派遣された時のこと。



太陽光で明るい病室。
この日本赤十字社が開いたパリの病院を描いた油絵で、
中央左に立っているのが
日本赤十字社熊本支部看護婦所属、竹田ハツメ。
今回の番組は、彼女の手記に沿った内容となっていました。






1914(大正3)年11月3日、彼女はパリへの派遣を言い渡されました。



ヨーロッパの戦地へ赴く、
フランス語など解するはずもない彼女にとって、
それは衝撃的な通達だったことでしょう。

しかも、4ヶ月前に勃発した人類史上初めての世界大戦。
イギリス、フランス、ロシアの連合国陣営と、
ドイツ、オーストリア=ハンガリーの同盟国が
双方の全国力をかけての総力戦でした。
イギリスと同盟している日本は、
連合国側として参戦、
三カ国に医療チームを送り込むことになりました。
当時の日本赤十字社は、
軍の監督下にあったため、
ハツメらはパリへと派遣されたのでした。

突如、フランス行きとなったハツメは、
帰宅すると両親に報告、
母親は心配していましたが、
父親はたいへん喜んだようです。
彼女自身も

これまで経験したことのない驚きと
うれしさが交互に湧いて
心臓の血管が波立つのが分かりました


と書き記しています。

1881(明治14)年、熊本に生まれた彼女は、
看護婦養成所を卒業、地元の病院に就職し、
日露戦争の際に招集を受け、
国から勲章を贈られるほどの働きを見せています。
フランス派遣の抜擢も、
その功績を見込まれてのものだったようです。



このフランス派遣は、日赤にとって
初めての海外の軍の中での活動、
そのメンバーにはハツメと同じく、
日露戦争などで活動した外科医、看護婦など31人は、
当時、全国から選ばれた精鋭でした。

12月16日、一行はフランスへと出発。
その船中初日のことは、

まだ見ぬ大都市のパリ
そして大戦乱の裏側などが想像されて
希望と好奇心がともえになって脳裏を支配し
ついにその日は眠ることができませんでた


ハツメはこのように記しています。
到着までは約50日が見込まれ、
ハツメたちは到着後すぐに救護にあたれるように、
洋上での準備にとりかかりました。
特に力を入れたのは、フランス語の猛特訓。
英語が出来る看護婦はいましたが、
フランス語についてはほぼ皆無。
とにかく、体の部位など、
患者と最低限のコミュニケーションを取るための単語を
頭に叩き込んでいきます。

年が明けて2月5日、パリに到着。
凱旋門から100mほど離れた場所に
日赤病院が開かれました。



高級ホテルだったものを、日本政府が借り上げて
病院として使用することにしたものです。



大食堂は大病室に、
客室を小病室として活用しました。
病床数は150、医療器具のほとんどは日本から持ち込んだ最新式。
薬品も出来る限りの膨大な量が用意されています。

2月24日、ハツメたちの救護活動が始まります。
このパリの日赤病院は、
フランス軍の中で重傷の患者を治療する病院となります。
このようにフランス軍の他の病院よりも、
特に重く用いられることになったのは、
その10年前の日露戦争での活動が評価されたからで、
当時、フランス軍はまだそのような近代戦は未経験であり、
知識と技術の備えがなかったのです。
当時の日赤は、世界で最先端の外科病院となっていました。

しかし、実際の現場では
思わぬ壁が日赤救護班を苦しめます。
船中で必死に覚えたフランス語が、
地方訛りの強い兵士たちに全く通じず、
そんなこともあって、日本人は信用できないとして、
治療に当たろうにも、それに拒否する兵士も多かったようです。

言葉が通じないというのは
看護にとって最も不便なものです
特に重傷の患者が痛みに耐えつつ
何とか自分の意思を伝えようとするさまは
看護をする者として言いしれぬ気の毒さを覚えます




ハツメら2人の看護婦と写っているのは現地の傷病兵。
彼らが着ているのはハツメたちが病院着として贈った着物です。
前線から血まみれ、埃まみれで病院に送られてくる彼らに、
せめて清潔な衣服をと、
ハツメたちが縫い上げたたもの。
彼女たちは、その時、出来ることをしようとしていました。

そんな努力が伝わったのか、
現地スタッフの力を借りつつ、
患者とのコミュニケーションが少しずつとれるようになり、
やがて、日赤病院は新設で技術に優れていると、
フランスで評判になっていきます。
彼女たちの包帯の巻き方などは、
どんなに動いても緩まない、ほどけないとして、
他の病院から医師たちが視察に訪れたほどでした。

ある者は日本の病院に収容されることが決まったとき
初めとても失望したそうです
しかし私たちの対応に接し
とても喜んでくれるようになりました


それは当時彼女たちの看護を受けた
兵士たちからの手紙からもわかります。

日本の赤十字病院で
すばらしい看護をしていただき
ありがとうございます
  私のすばらしい看護婦であるタケダさんへ




…続きます









歴史秘話ヒストリア 「看護婦が見た世界大戦の真実」 その2

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こちらからの続きです。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11848435500.html


フランス中部の街、リモージュ。
ここのフランス軍病院医療史料部には、
19世紀からアフガニスタン紛争までの
フランス軍傷病兵の治療記録が収められています。
ここに第一次世界大戦下のパリの日赤病院の記録もあります。
およそ900人の患者の名前が確認出来、
中でも銃弾や砲弾による負傷が多く見られます。
毒ガスによる熱傷も。
右腕と胃を撃たれた者、
頭部と脊椎に砲弾の破片が突き刺さった者…。
第一次世界大戦は、大量殺戮兵器が登場した戦争でした。
1分間に数百発もの銃弾を撃つことが出来る機関銃、
その機関銃の弾丸を跳ね返す戦車による砲撃、
それまでは地上と海上が戦場でしたが、
戦闘機の出現により、それは立体化されます。

それは、竹田ハツメらが経験していた日露戦争とも別次元のものでした。

日露戦争の時と
今度の戦争の負傷者を比べますと
みな一様に残虐のあとが推察されます
日夜重症患者を取り扱っている私たちですら
戦慄を禁じ得ません



アンドレ・ロシニョル=デュ=ベレイは
記録によれば、砲撃を受けて首と左肩に重傷。
当時、彼は航空部隊に所属、
僚機が撃墜され、地上で救助にあたっている中、
敵の砲撃に見舞われました。
砲弾の破片は右肩に突き刺さり、
左肩まで貫通していたそうです。
首全体が傷に覆われ、化膿が酷く、
彼はもう助からないだろうと皆は思いました。
当時の医療現場では、感染症が大きな問題で、
戦場での負傷の場合、特に細菌による感染症で
多くの命が失われていたんです。
ベレイの場合も、既に化膿が酷かったようですが、
パリの日赤病院で、消毒したシーツにくるまれました。
そのシーツを1日に3回交換し、
常に傷口を消毒することで、
彼は回復へと向かっていったのでした。

ある日、日赤病院に一人の若い女性が駆け込んできました。
彼女は砲撃により視力を失って
ベッドに横たわっているリッセルの婚約者でした。

病室に来た時のミルラは
ほとんど正気を失っていました
そしてはらわたもちぎれんばかりの声で泣くのです
そんな姿を目にして
私も思わず同情の涙にかきくれました


そんなミルラとハツメは言葉を交わすようになり、
やがて、リッセルの看護をミルラが手伝うようになります。
彼は二人の献身的な看護の甲斐もあって、
心の傷が少しずつ癒えていき、
退院することができました。
そして、約束どおり、二人は結婚したのでした。
ハツメがミルラから受け取った手紙です。

彼はもう二度と目を開くことはできません
けれども今はバイオリンを弾くことだってできます
ハツメさんお便りをください
私がそれを読んで聞かせてあげれば
どんなに喜ぶことでしょう



1915(大正4)年秋、膠着状態にあったドイツ軍との戦線は、
フランス軍が大攻勢に出ることが大きく動きました。
同時におびただしい数の日赤病院に運び込まれてきます。
この時、ハツメはひと月で4625人の傷病兵の看護にあたっています。
そんな時、本国日赤本社から

パリから撤退し帰朝せよ

との命令が下ります。
日赤のパリ派遣は5ヵ月の予定でした。
そして、もう既に10ヵ月が経過していたのです。
しかし、目の前に
自分たちの力を必要としている人たちが大勢いるのに、
帰国などは考えられない。
現場のチームは本国にそう訴えました。

救護班一同
戦争終結までとの覚悟を固めております


それにより、派遣期間は延長、
しかし、仏独の戦線はドイツ軍が押し返すことで、
また大きく変化、運ばれてくる大勢の負傷兵の中に、
アンリ・ジビエ砲兵伍長もいました。



彼は砲弾の破片を受け、
傷は心臓と大動脈に達していました。
助かる見込みは薄く、
大手術の前に日赤の医師は家族を呼べと命じます。
しかし、彼の家族は100kmも離れた町から来るため、
それまで保たせられるか予断を許しません。
「せめてひと目だけでも」と、
ハツメたちは彼の胸を押さえ続けました。
出血を少しでも抑えるために、
9時間ものあいだ。

ちょうど、ベルダンで激戦が展開されていたその時期です。
ベルダンはフランス北東部の街で、
第一次大戦中、1916年2月から16ヵ月もの間
悽惨な戦いが繰り広げられました。
ベルダンの戦いでは、両軍合わせて死傷者70万人、
うち死者はフランス軍16万、ドイツ軍10万。
そのあまりの凄まじさに、
イギリス人ジャーナリストはこの戦場を
「肉挽き器」と喩えています。
五体満足ではない遺体も数多くありました。

パリも安全ではなくなります。
ドイツ軍による空爆が開始されたのです。
燈火管制が布かれる中、
ハツメたちも爆弾の炸裂音を聞いていました。

遠き異郷のパリで
敵弾に倒れることかと思いました時
涙がハラハラと流れました


爆弾は民家も直撃し、病院の周囲でも死傷者が出ます。
あまりの負傷者の多さに、
日本から大量に持ち込んだはずの医薬品も枯渇、
過労で看護婦の中には倒れてしまう者も出てきました。
極限状態の病院で、ハツメが目を離した隙に、
受け持ちの患者が昏倒してしまいました。
これは心臓に問題があると、
医師からは一時も離れてはいけないと注意を受けました。

私は人間をひとり
殺していたかもしれない
そう思うと大きな動悸が
ドキドキといくつかいたしました
私も死にたくなり
何かあれば自殺しておわびしようと考えています


パリの日本赤十字病院は活動の限界を超えていたんです。

1916(大正5)年7月、日赤救護班パリ撤退。

この時のことを当時の医長が
NHKに語った録音が残されています。

私どもは早く引き揚げろということを
命令を受けていたんですけれども
向こうではもし帰れという命令があるなら
一部でもいいから残っておってくれと
言われていたんだけれども
とうとうそれを断って帰ることになった


人類未曾有の大戦争に、
ハツメたちは力尽きたのでした。

最後まで守り切れなかった傷病兵たち。
そして、助けてくれた病院のスタッフ。
ハツメはその一人一人の名前を手帳に書き記しています。

右太ももを負傷した方です
私たちの引き揚げのときも
体の自由がきかず
ともに泣いて別れることになりました



7月10日、病院を出たハツメたち一行を
パリの駅で待ち構えている人たちがいました。
おぼつかない足取りで近寄ってくるその人たちは、
日赤病院でハツメたちが看護した人たちでした。

「ありがとう。ありがとう」

口々にそう繰り返す彼らに、
ただ、手を握り返すことしか出来ません。
こうして、2年間のパリ日赤病院の活動は幕を閉じたのでした。




フランスから帰国したハツメは故郷・熊本に戻ります。
現在の熊本大学医学部附属病院で
看護と後進の育成に生涯を捧げ、
1973(昭和48)年、亡くなります。
享年、92。

この第一次世界大戦での経験は、
日本が海外での戦場に看護婦を
本格的に動員するきっかけとなりました。
第二次世界大戦終結までに、
3万2000人の看護婦が従軍、
そのうち、1000人以上が亡くなったとされます。

パリでハツメと苦楽を共にした加藤きんは



シベリア出兵で招集を受け、
チェコスロバキア兵などの救護にあたります。
日中戦争では、病院船の看護婦長として、
日中間を数十回にわたり往復、
傷病兵の看護に力を尽くしました。
戦後、長年の功績が認められ、
看護師としての最高の栄誉である
フローレンス・ナイチンゲール記章を受章、
しかし、パリ日赤病院での記憶を、家族に対してでさえ
彼女が語ることはありませんでした。

一方、現在のパリの南、ピティヴィエには
ジビエさん一家が書店を営んでいます。
あの時、砲弾で心臓と大動脈を損傷、
ハツメたちが9時間、
胸を押さえ続けた彼の子孫です。
その後、彼は大手術を乗り越え、
故郷で6人の子供と、21人の孫に恵まれたのでした。
息子のピエールさんのお話です。

日本の看護婦さんとお医者さんに
感謝の気持ちでいっぱいです
あの時の手術がなければ
父は間違いなく死んでいたでしょう
もしそうなら私たちはここに存在していないのです



私は飾り石のような華やかな人間となるより
裏石のように目立たずとも
人々を支える人間になることを望みます
そのことは日本を出発するときから
ずっと考えてきたとなのです


戦地パリの日々を送る中で、
看護婦竹田ハツメが誓った言葉です。





赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」展 - 日本赤十字社 熊本県支部
http://www.kumamoto.jrc.or.jp/exhibition/ex04



「特ダネ投稿DO画」で放送されたネコ動画をご紹介 -落ちるネコ-

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まずは「特ダネ投稿DO画」から
落ちるネコを2つ。


眠るネコ。
夢見の加減か痙攣中。



凄いのは落下しても何事もなく眠り続けること。
そして、目を醒まして振り返り、
「お前、見てたのか」の顔がいいです。



調べてみますと、同じ投稿者から
このネコの動画が他にも投稿されていて、
それを見るとこの子が落ちるのはいつもことのようです。



寝相が悪いなら、落ちない場所で寝ればいいはずですが
なぜか崖っぷちで眠るようです。
それにしても、頭は打たないのでしょうか?



次は深刻な場面です。



元々、どうしたかったのかは不明ですが、
敢えなく落下。
落下が始まるとすぐに態勢を整えているのがさすがです。


1989年6月4日から25年。天安門事件 -六四-

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南シナ海で中国とベトナム、
中国とフィリピンの間で緊迫しております。
ベトナムでは中国企業などに対するデモが発生、
暴徒化した反中デモはついに、
多数の死者が出てしまいました。

ウイグルでは、次から次へと
ウイグル人が死刑判決を出されていて、
我々は中国共産党の行いこそが
元凶であることを認識しないといけません。
そもそも、中華人民共和国領新疆ウイグル自治区とされている地域は、
東トルキスタンであり、中国の領土ではなく、
チベット自治区も同様で、
自治区とは中国共産党の都合でそう呼んでいるだけで、
要するに、占領下にあるということです。

現在、次々と天安門事件の研究者、弁護士が
拘束されています。
六四天安門事件の中国共産党による大虐殺から四半世紀。
今年、何かが起こるのではないかと
中国共産党は必死にその可能性を潰そうとしています。
それと、南シナ海での出来事が
無関係であろうはずはありません。
過去の対日賠償を中国政府が認めたのも関係があることでしょう。

今年のその日、何かが起こるのか起こらないのか、
起こるなら何が起こるのかはわかりませんが、
私たちは、その日までの中国政府の行いを
注視しなければなりません。
日本にも関わりがある事柄です。
日本に対して、また強い態度に出て来る可能性もあります。
あるいは、懐柔策に出る可能性もありますので、
冷静な見極めが必要となります。

石平先生の14日のTweetです。

フィリピンの中国漁民拿捕から一週間経ったが中国側の反応は意外に鈍い。外務省報道官レベルで抗議しただけで何の対抗措置も取れていない。日本の中国人船長逮捕の時とは全然違う。やはりベトナムとも衝突している中で中国は両面作戦を避けたいだろうが、皆は一斉立ち上がればヤクザも怖くないのだ。
https://twitter.com/liyonyon/status/466339111293706241

以前から何度もお書きしているように、
中国と対するには、彼らに害を受けている各国との連携が必要で、
領土、領海、領空の侵犯では、
我々は東シナ海で迷惑を被っていますが、
同様か我々以上の被害を、
ベトナムやフィリピンは南シナ海で受けている訳で、
ここと連携しない理由はありません。
ベトナムとフィリピンは、
我が国が尖閣周辺海域を侵された時とは違う対応を見せました。
見習わねばなりません。
経済的には、ベトナムなどで反中意識が継続することを見越すならば、
そこにビジネスチャンスが生まれることでしょう。

日本のマスコミは、
時に中国共産党の見解に沿った内容の報道をすることがあります。
その点も、私たちは認識しておくべきであろうかと思います。


軍師官兵衛 第19話「非情の罠」 その背景 ~小寺政職はバカ殿様か?~

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黒田官兵衛の前半生の山場となりましたが、
小寺家にとってはクライマックスとなりました。

小寺政職を演じる片岡鶴太郎さんによりますと、
この役を演じるにあたり、
どのような人物として演じるかの話になった時に、

「仁義なき戦い」の金子信雄さんのイメージでお願いします

と言われたとか。
わざわざ赤鼻にして、馬鹿っぽさを見せつつ、
官兵衛を謀って闇討ちしようとする、
そんな怖いキャラクターにしたかったようですね。



小寺家は元々赤松家の家臣の家系。
別所、櫛橋、浦上、明石などもそうですね。
一度は当主が討たれた赤松家でしたが、
その再興に尽力した一人が小寺家でした。
以後、赤松家の中で彼は重く用いられますが、
下剋上の時代となり、
独立しての領主となりました。

小寺政職は御着を拠点に、周辺の小領主たちを制圧、
守りを固めると同時に勢力を拡大していきました。
将としても優れていたのでしょう。
そして、彼はその時点では氏素性のよくわからない
黒田職隆を重用し、その子官兵衛の能力も高く評価して
彼の意見を重く捉えていました。
だからこそ、毛利と織田の戦いになった時、
大半が毛利方につくべしと口を揃えたのに対し、
少数派の官兵衛の考えに従い、
織田方につくことにしたのでしょう。

ただ、最後の最後、
荒木村重が謀反に及ぶと、
毛利方についてしまったんですね。
そして、ドラマで鼻を赤くされてしまう訳です。
ただ、これも最初に織田方につくと決めた時とは
状況があまりにも違うわけで、
この時点だと周囲は毛利か反織田ばかりですから、
致し方ない判断なのかも。



ドラマでもああいう役回りですけれど、
見た目どおりの馬鹿っぽい人ではないとは思います。









セウォル号沈没事故1ヶ月 -韓国・社会構造の変革に必要な事-

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私のこのブログの場合、時事ネタが増えますと、
アクセス数が減るという傾向があるんですが、
思うところがありまして、
お書きしたいと思います。

セウォル号の事故以前からネット上で

韓国国民は日本に統治され続けていたほうがよかったのではないか

このような(おそらく日本人の)主張が見られていました。
現実に社会全体としてどうなのか、
外国人の私にはわかりませんが、
このセウォル号の事故の問題に限ってはどうでしょうか?

もしも、現在も韓国が日本の統治下にあったなら、
あの事故は起きていないか、
起きていても、はるかに少ない被害で済んでいたはずです。

私が何を言いたいかといいますと、
二度とこのような人災を
起こさないようにすべきだということです。

伝えられるところによれば、
韓国国民の怒りと悲しみは増大し、
その責任追及は、船長、船会社から
政権、社会に向かったとあります。
もちろん、責任の所在は明らかにすべきですけれど、
それを処罰したところで、
社会構造がそのままでは、
繰り返し同じ事故が起きるかもしれませんし、
その後の救助でも、未熟か不手際なまま、
死なずに済む人を殺してしまうことになります。

なぜ、あの船に異常なほどの過積載が起きたのか?
なぜ、名簿に名前のない乗客が多数いたのか?
なぜ、海洋警察は未熟なまま職務に当たっていたのか?
なぜ、海洋警察の海難救助の技能が低いのに、
日米の協力を断ったのか?
なぜ、カルトとされている宗教団体が
多数の企業を束ねる営利グループを運営できるのか?
なぜ、兪炳彦教主は過去に常習詐欺罪で有罪判決を受け、
さらに遊覧船事故を起こしていたにもかかわらず、
現在の船会社の起業が可能だったのか?

この事件の責任の有無について、
彼らは裁かれねばなりません。
しかし、それよりも大切なのは再発の防止です。
日本の現在の社会のシステムであれば、
ほとんどの事象は起きていないか、
問題の程度は軽かったであろうかと思います。

韓国国民は日本に統治され続けていたほうがよかった

韓国国民は愛国心が強く、
その方面でのプライドが高い国民性だと認識しています。
だからこそ、このようなことを言われるのは心外だと思います。
北朝鮮からもこの事故とその救助については
批判の声明が出されています。
残念ながら、この件では北の言葉に正しさが含まれています。
そして、我が国の場合、

日本はアメリカに統治され続けていたほうがよかった

という部分はあまりないでしょう。
日本の社会にも問題点は多数あります。
愛国心という面においても、
国民に多数の反日思想家がいるあたり、
アメリカのそれよりも強くないかもしれませんが、
それでも、アメリカ社会よりも、
劣っているとは感じません
韓国の場合はどうでしょうか?
繰り返しますが、日本なら、
ああいう大惨事にはなりません。

あの事故以来、韓国のテレビなどのマスコミでは、
この事故についての番組ばかりで、
娯楽系の番組は自粛されてきたと聞きます。
しかし、反日については、
相変わらず時間と紙幅を割いていて、
さらにこんな時にもかかわらず、
安重根記念館に政府代表団を送り込む。
伊藤博文が韓国併合においてどのような考えであったか、
安重根が韓国併合においてどのような考えであったかなんて
その事実関係を一切考えもせずに。

そんなことをしている場合ではないでしょう。
事実を知ることよりも恨みのほうを大事にしているから、
韓国の文化を評して

恨みの文化

なんて言われてしまうんです。
亡くなった人を悼むことと、
恨むことは違うんです。
恨みを晴らすことを事実糾明よりも大事にしているから、
見るからに怪しげな経歴の人物が
しかも宗教法人の代表者が
さらにはカルトとして認識されているのに
大きな船会社の実質的オーナーとなり、
また、そこの船に修学旅行生を乗せることについて、
教員たちが違和感を感じなかったということはないでしょうか?

韓国国民は日本に統治され続けていたほうがよかった

そんな言葉を心底、
鼻で笑えるぐらいの社会にすべく、
この事故から自国の社会構造を考えていただきたいと思います。
そのためには、自国の歴史を再認識する必要があります。
学校が教えていることが必ずしも真実だとは限りません。
日本を含め、世界各国も
感情よりも事実を尊重すべきだとは思いますが、
私たち日本人の場合、義務教育で、
反日教育を受けてさせられているからか、
その点はマシかもしれません。
ただ、日本も事実よりも感情を優先している例が多数あり、
特に一部の感情的煽動により
福島県が受けている風評被害は
早くなんとかしないといけません。






歴史秘話ヒストリア 「新発見!龍馬の手紙 ~風雲児の筆が語る幕末の真実~」 -盟友・由利公正-

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今回の新発見のことで、
番組表のリードに書かれている
「世紀の発見!」とかいう言葉が誇張したものであること、
とてもよくわかりましたね。

この龍馬手紙の新発見の時には、
即日新聞、テレビのニュースなどで
たくさんのメディアで取り上げられていました。
これぐらいのインパクトがあれば
報道されるんですよね。
番組視聴率のためにも、
新発見の内容を秘密にしておくよりも、
公開しておいた方がよいと思いますし。
ただ、世間の注目を浴びない分野などでは、
テレビで初めて知る新発見はたくさんありますけれど。


坂本龍馬の“幻の手紙”を番組取材中に発見! 驚きの鑑定額にスタジオが騒然!!
http://news.walkerplus.com/article/45862/

この時の発見ですね。
「突撃!アッとホーム」のロケ取材で、
バイきんぐのお二人が家族との思い出など、
そのお家にとってのお宝を探すために
街頭で「お家にお宝ありませんか?」と
質問してまわっていて、
その時、「坂本龍馬の手紙」があると仰る女性と出会ったんですね。



小峠さんが大笑いしていますので、
それが本物だとは露程も思われなかったのでしょう。
私が現場にいたなら、同じように信じなかったと思います。



その後、番組でそれが公開鑑定され、
真筆であることが判明、価格は1500万円でした。
その女性のお話によりますと、
お父様が2~30年前に古美術商から
1000円で購入されたものだったそうです。


発見された坂本龍馬の「越行の記」には、
大政奉還がなされた後の新政府の形について、
財政計画、人材構想案などが書かれています。
本文の文字数739字で、後藤象二郎に宛てたもの。

知られざる"龍馬伝"世紀の英雄・坂本龍馬最大の謎と秘密の暗号「新政府綱領八策」
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10529667572.html

ここにも関わりがあるものですね。
そして、そこに見える

三八

の文字。この手紙の中に6度登場しています。
これは福井藩士・三岡八郎のこと。

坂本龍馬が生まれる6年前の1829年に
三岡八郎は生まれています。
学問嫌いで、武芸を好んだ少年時代であったようです。
それが槍の才能として開花し、
若くして免許皆伝だったとか。

しかし、黒船来航の25歳の頃の時代には、
経済学にのめり込んでいました。
それは福井藩政治顧問の横井小楠の現実的な経済理論に惹かれてのもの。

国が富むにはまず外国と交易し人々を豊かにする
そのために人々の生産性を高くするのだ


後に明治政府が行うことになる殖産興業についての考えでした。
三岡は海外との貿易を如何に藩財政に生かすことが出来るのかを考え、
やがて藩内きっての経済学通として知られるようになり、
32歳の時に、財政担当となり、
悪化した藩財政を再建しています。
彼はまず藩札を発行しました。
藩札は各藩独自の紙幣で、藩自体の信用により、
その価値は担保されます。
元々はただの紙切れに印刷しただけのものです。
それを資金に貿易で利益を獲得することに成功しました。

1863年、三岡八郎35歳。
この時、坂本龍馬と出会っています。その時29歳。
龍馬も横井小楠の経済による強い国作りを
実践しようとしていました。
彼は海軍力を背景に、海外貿易の発展を計画、
その実現のため、資金援助を求めて、
世界における日本の状況を理解し、
横井小楠の影響を強く受ける福井藩を訪ねたのでした。
この時、藩主松平春嶽は龍馬に5000両を用立てています。
これが勝海舟の神戸海軍塾の資金となる訳ですが、
三岡八郎などの功により、
財政が安定してきているとはいえ、
裕福とはいえない状態で、
これだけの大金を支出することには、
三岡八郎が関わっていたのかもしれません。

当時はまだ、「国」といえば、
福井藩だったり、土佐藩だったり、
あるいは越前国という認識なんですが、
三岡八郎と坂本龍馬は違っていました。
私たちが今考えている「国」の単位、
日本国として、その未来をどうすべきかを考えていたのです。

君がため捨つる命は惜しまねど
   心にかかる国の行く末


そんな頃、酒席で龍馬が三岡に贈った歌です。

龍馬も実用には何の役にも立たない学問を否定し、
世の中にとってそれがどういう意味があるのかを考え、
有用なものを実践し続ける主義。
似たもの同士の二人が意気投合したのも当然といえます。


1867年、御札降り、
全国の民衆の間でええじゃないか騒動が起きている頃、
薩摩藩と長州藩は武力による倒幕の動きを見せ、
日本は内乱の危機にありました。
一方の龍馬は、不戦による倒幕、
幕府から朝廷への政権返上、
すなわち、大政奉還を実現させようとしていました。
薩長の動きよりも早く、
それを実現せねばなりません。

政権の返上を幕府が受け入れなければ
我らは将軍徳川慶喜を天下国家のため討ち取るつもりです
その場合は後藤先生とあの世でお会いすることになりましょう


10月13日、後藤象二郎宛ての手紙の中で、
龍馬はその覚悟を見せつつ、
後藤に対して、命がけでも交渉を成功させてほしいと、
伝えてきています。
この時、龍馬暗殺まであと32日。

翌日、大政奉還。
260余年の徳川家による天下は終わりました。
土佐藩士や龍馬周辺は無事大願が成ったこと歓喜しますが、
当の坂本龍馬は違っていました。
朝廷に政権が移ったところで、
国家の形が不安定では諸外国に対する隙となり、
殖産興業どころではありません。
龍馬は大政奉還から14日間の間に、
新政府の人事案をまとめています。
10月24日、龍馬はまた福井の松平春嶽の元へ。
今回の新発見の手紙「越行の記」はこの時の旅のことを
後藤象二郎に報告しているものです。

10月28日、龍馬暗殺まで17日。
福井到着も、春嶽多忙につき面会はならず、
龍馬は土佐藩からの書状を言伝ました。
これまでの研究では、
この旅で龍馬は春嶽に面会したというのが定説でしたが、
この新発見により、
会うことが出来なかったことが判明したことになります。

一方、三岡八郎は謹慎中。
彼は新しい日本のために福井藩も行動すべきと訴えますが、
藩内の賛同を得られず、失脚していたのです。
そのため、誰かと面会できるものではありませんでしたが、
龍馬が福井藩に三岡との面会を懇願、
藩が断ってもしつこく願い続ける龍馬に
藩も折れ、2日後、非公式の形で面会することが出来ました。

三十日朝 三岡八郎及び松平源太郎来る

松平源太郎は正直のこと。
三岡が謹慎中の身であるための立会人であったようです。
あとは目付の出淵伝之丞が同席していたとのこと。
龍馬が彼との面談にこだわったのは、
旧交を温めることもそうですが、
それに加え、新政府の経済政策について、
三岡がどのように考えるか
意見を聞きたかったからでした。
三岡はまずかつての藩札発行の時のように、
新政府としての金札発行するべきだとし、
他にも龍馬のその期待通りに、
三岡は独創的な案を次々と提案、
これを聞いて龍馬は

金銀物産とふの事を論じ
候ニハ此三八を置かバ他ニ人なかるべし


と、新政府に彼が必要であると確信し、
それを新発見の後藤象二郎宛信書に書き記しています。

別れ際、龍馬は友情の証として、
自分の写真を三岡に贈っています。
しかし、数日後、彼は龍馬との面会について家老に報告に行った帰り、
川船から川にその写真を落としてしまいます。
彼にはそれが不吉に思え、
大いに気がかりだったそうです。

11月5日、龍馬は京に戻りました。
新発見の手紙はこの日以降に書かれたものと考えられます。

11月15日、近江屋にて坂本龍馬、
中岡慎太郎とともに暗殺。

その報せは、龍馬の身を案じていた三岡のいる越前にも届けられ、
京へと上り、密かに、彼は龍馬の供養をするのでした。
この頃、三岡八郎は由利公正と改名し、
明けて正月、三岡八郎は龍馬の構想を生かした五箇条の御誓文を起草、
それが新政府の基本方針となります。
維新後は明治政府の財政担当となり、
紙幣の発行など、新政府の経済基盤を築くことになります。

夜の海に浮かぶ思ひのあとさきに
   こころもつれての涙川なす


晩年、由利公正が坂本龍馬を偲んで詠んだ歌です。








以下、下記より引用の「越行の記」原文及び現代語訳です。

NHK「突撃!アッとホーム」
http://www.nhk.or.jp/athome/sp/onair/20140412c01.html

原文
越行の記
十月廿八日福井ニ達ス奏者役
伴圭三郎来ル御書を相渡ス
直柔が役名を問ふ、海援隊惣
官を以てことふ
  同夜
三十日朝大目付村田巳三郎来ル。
用向無之哉を問ふニ曰ク、近時云々
を言上仕り其うへ御論拝承仕度
およそ明白なる国論を海外迠も
不聞を恐るゝことニ御座候。扨此
度こそ私共も御国論拝承仕り度
心願在之候。村巳曰ク老主人出京
も来月二日ニ取定めたり、事
多端なれバ御目にかゝり不申。然ニ
前條御尋の如きハ拙者より
申上候。されバ老主人出京後彼
是手順もあるべけれども将軍
家政権を御帰しとなれバ将
軍職も共に御帰し不被成ては
とても御反正と申ても天下の人
心折合不申と国論こゝに
     同廿九日
在之候云々、此夜奏者伴
圭三郎来り御答書を受
取ル

■丗日
朔日朝、三岡八郎及松平
源太郎来ル 但シ三八に面会の事を昨夕
      村巳に頼置しニ三八儀は
先ン年押込メラレし後ハ他国人ニ面会
かたくさしとめられたり。故ニ政府の論儀ニより
君側中老役松平源をさしそへたり。
其故にや三八が来りし時、松平源を目
して、私しハ悪党故君側より番人が
参りました、といへバ
松平源も共に笑ふ 夫より近時京
師の勢前後不残談論ス
此談至り尽シタリ
深ク御案可被下  三八曰ク将軍家信
 反
ニ返正すれバ何ぞ早く形を以て
天下に示さゝる近年来幕
府失策のミ其末言葉を以
する事ハ天下の人皆不信さ
るなり云々是より金銭国用
の事を論ズ曽而春嶽侯
惣裁職たりし時三八自ラ幕
府勘定局の帳面をしらべしに
幕の金の内つらハ唯銀座
局斗りなりとて気の毒がり居
候御聞置可被成候惣じて金
銀物産とふの事を論じ
候ニハ此三八を置かバ他ニ人な
かるべし
十一月五日京師ニ帰ル福岡
参政に越老侯の御答書を渡ス
右大よふ申上候謹言
直柔
後藤先生

近日中根雪江は越老侯
の御供村田巳三郎ハ国本のこる家
老ハ可なりのもの出るとのこと再拝再拝。



現代語訳
越前行きの記
十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。

三十日(朔日を訂正)朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば
松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、
どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ)これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。

十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
大よそ右のようなことです。謹言
直柔
後藤先生

近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
再拝再拝





記事に対する自動機械式ツールコメント、コピペコメントは無意味

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いつもごらんいただきありがとうございます。
そして、コメントをくださる方々、
ありがとうございます。
このブログでは、コメント欄を開けてあり、
どなたでも書き込んでくだされは嬉しいですし、
お返事もお書きしています。
また、私の記事の内容の誤りの指摘も歓迎しています。
今後も、お気づきのことがございましたら、
よろしくお願いします。

ただ、機械的にコメントをつけてまわっている方々については、
あまり気持ちのいい思いはしません。
ここのところ多いんですよね。
枯れ木も山の賑わいですから、
そのまま放置しているんですけれど、
私は記事の内容について触れていないコメントについては、
検索してみることがあります。
そうすると、何十もの記事に同じ文言のコメントが見つかります。
そういうこともあって、
どなたかがそのコメントの文言で、
検索した時に、私の記事へのコメントが表示され、
それがプログラムで、あるいはコピーアンドペーストで
書かれたものであることの判断材料になろうかと思いますので、
基本的には削除しない方針です。

まあ、そうやってツールなどで
コメントをつけてまわっている方たちが、
この記事をご覧になることはないんでしょうけれど、
何のためにそんなことをしているのだろうかと思う訳です。

素敵なブログですね

こういう書き出しで、

また遊びに来ます

という形が多く、
その後、

私のブログにも良かったら遊びにきてください

が典型ですね。
遊びに行きません。

記事の内容と関わりがあるコメントなら、
読んで下さっていることがわかり、
とても嬉しいんですけれど、
こういう機械式のコメントの場合、
全く的外れのこともあります。
以前、お書きした社会問題の時事ネタの記事に対し、

楽しい

という言葉がコメントに使われていました。
人が死んだ話なのに、楽しいとは。
これについては削除させていただきました。
的外れにしないためには、
記事の感想らしき表現を避けねばなりませんので、
当然、記事の内容に関わりのない、
どこにでも不適合にはならない無意味なコメントになってしまいます。

プログラムで、あるいはコピペで、
コメントをつけてまわったところで、
アクセス数は増えません。
増えたところで、十かそこらの増加にしかならないでしょう。
おそらく、アフィリエイト関連が動機なのでしょうが、
それが収入に貢献するとは考えられません。
もともと、有効な方法ではありませんでしたが、
さらに時代遅れの方法でもあります。
全く無意味なことで、
中には有料のソフトを使用している方もいらっしゃるでしょう。
馬鹿馬鹿しいので、おやめになるのがよろしいかと思います。

コメントの文言で検索しますと、
他の方のブログに同じ内容で書かれたコメントが見つかります。
その中には、コピペであるにもかかわらず、
真剣にお返事されているブログ主もいらっしゃって、
どんな返事をしても、それがその人の目に留まることはない。
それにブログ主が気付いた時、
どんな気持ちになるんだろうかと思います。
そういう事は考えないんでしょうね。
コピペコメントの主は。
そういう事に思い至るのであれば、
読んでもいない記事に、
さも読んだかのようなコメントは残さないのでしょうけれど。
まあ、コピペでも何でも、
このブログについては、
そういうものを残していって結構ですが、
それが無意味で有害にもなりうることに
早く気付いていただければと思います。




幻解!超常ファイル「検証!魔のトンネル伝説」 その1

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数ある心霊スポットを紹介する書籍、雑誌類でも、
特に恐ろしい場所として取り上げられるのがトンネル。
何らかの怪奇現象の噂があるトンネルは、
全国に60もあるんだそうです。

東京都西部の旧吹上トンネル。



夜な夜な白服の少女が現れるといい、
彼女はトンネル内の殺人事件の被害者だと。
群馬のSトンネルは古戦場近くにあり、
落ち武者の幽霊画現れると。

東京都千駄ヶ谷トンネルでは、



恐ろし形相で走る車を追いかけてくる老婆の霊が。
この上は仙寿院で、墓所があるとされます。


神奈川県鎌倉市小坪トンネル。





ここでは、60年以上怪奇現象が起こっているとされ、
それも様々なタイプの心霊現象に変化していっているそうです。

現代

夜、クルマでやってきた若者たち。
トンネルに入ると、突然、クルマが停止。
エンストかと思っていると、
フロントガラスに血の塊が付着していることに気付きます。
さらに、





クルマの屋根にバラバラ死体が落ちてきたというのです。


昭和50年代

女性タレントK.N.さんかが雑誌やテレビで
次のように話し、話題となりました。
彼女はこのトンネルに幽霊が出るという噂を聞いて、
霧雨の夜、仲間たちとクルマで出かけました。
突然、フロントガラスに浮かび上がる青白い手形。
屋根に何かが落ちたかのような音と衝撃。
彼女たちはクルマを捨てて走って逃げたそうです。
現在のバラバラ死体の話は、
これが変化したものかもしれません。
しかし、彼女は噂を耳にしたから出かけたのであって、
ならば、その噂はどうして広まったのでしょうか?


昭和20年代

川端康成の短編「無言」



「私」が小説家の見舞いに行った時、
タクシーの運転手から
鎌倉から逗子へと向かう途中のトンネルで幽霊の話を聞く。
トンネルの手前に火葬場があり、
近頃は幽霊が出るという噂もある。
夜中に火葬場の下を通る車に
若く美しい女の幽霊が乗ってくるというのだ。
「私」が用を済ませてタクシーに乗り込み、
鎌倉側へ。そして、火葬場の下にさしかかった時に、

出ました。旦那の横に座ってます

運転手が言う。

脅かすなよ。冗談じゃない

運転手の言葉に「私」は酔いが醒めた。

いますよ、そこに。座ってます。旦那には見えねえんですか?


いつの間にか幽霊がクルマに乗り込んでいる。
このような典型的な幽霊は自動車出現以前から、
日本人の意識にすり込まれているのではないか、
國學院大學文学部助教で民俗学の飯倉義之先生はそう考えています。

クルマという乗り物には座席がある訳なんですけれども、
空の座席に霊が乗り込んでくるという考え方が
日本には古くからありまして、
お盆の精霊馬、



あれも空のウシやウマにご先祖様の霊が乗るということによって、
あの世から行ったり来たりする、
そういう場所だといえます



ここで小坪トンネルから離れて
2006年にポルトガルから投稿された動画をご紹介します。
この動画で世界は騒然となったと…

※有名なビデオです。面白がるぐらいが丁度いいです。


主要部分を日本語訳したもの



…続きます。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11862130440.html




幻解!超常ファイル「検証!魔のトンネル伝説」 その2

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こちらからの続きです。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11860930358.html


昨夜ご紹介したこのビデオ。
この事件では、生き残ったとされているのは
撮影者だけ…、とはいいますが、
元々は映像作家が作成した短編映画であり、
それが10カ国語以上で転載されていくうちに、
実際の事件の映像として紹介されてしまっていたのでした。




いっぽう、民俗学の飯倉義之先生の
日本についての説明がありましたが、
クルマに幽霊が乗り込んでくるという展開は、
世界中で人を惹きつける要素なのかもしれません。


話を鎌倉の小坪トンネルに戻します。
時間の流れで見てみますと、
元々、このあたりには幽霊が出る、
あるいはそれがクルマに乗り込んでくるという噂があり、
それを元に川端康成が短編小説にし、
その効果もあってか、このトンネルの噂は
この地域以外にも広まり、
謎の落下物が落ちてくるという
女性タレントK.N.さんが体験を語ったとされる雑誌、
テレビ番組などの影響により、
全国でそれを認知する人が増え、
バラバラ死体が落ちてくるという
怪奇現象の内容が
さらにグロテスクなものに変化していったことなります。

なぜ、話は変化していったのでしょうか?
この怪奇話の変化の謎に挑んだのが作家の広坂朋信さん。
20年以上にわたり、各地のミステリースポットの現場検証を行い、
解明し続けてきました。



彼によれば、このトンネルの変化にあるといいます。



川端康成が「無言」を発表した頃の付近の様子。
2本のトンネルがありますが、
ストーリーからその舞台は
火葬場側のトンネルであろうかと考えられます。



昭和41年になりますと、
2本のトンネルの間に新たなトンネルが開通、
連続する3つのトンネルが1本の直線で結ばれたことになります。
K.N.さんの体験談はその後。
広坂さんは彼女の体験談の謎を解く鍵は、
2本目と3本目のトンネルの入口にあると話します。



当日の夜は雨でした。
雨の日にはトンネルの上の草を伝って、
泥水が落ちてくることも充分にあり得ます。
これが2本目のトンネルの入口です。



次は3本目のトンネルの入口。
ここも上を見てみますと、



構造物に欠落が見られます。
ここは明治に出来た古いトンネルでレンガ造り。
現在でもレンガが落ちた跡が確認出来ます。

夜、実際に現場を走ると、
昼間は確認出来たトンネル内と外の区別が
つきにくくなることがわかります。
特に開通当初は照明も少なく、
一つの長いトンネルが続いていると認識したとしても、
不思議ではありません。

1本目と2本目のトンネルの間で、
フロントガラスに水が落ちてきたとします。
トンネルの外ですから、
雨などの水滴が落ちてきているだけなんですが、
トンネルの中だと認識している場合は、
それを不可解に思うか恐怖を感じることでしょう。
そんな時、3本目のトンネルの入口で
屋根にレンガなどが落ちてきたとすれば、
その驚きは並大抵ではないでしょう。

テレビが普及し、テレビの影響力が大きくなっていった時代。
当時若かったその女性タレントが
疑うこともせずにそう話すことで、
この"怪奇現象"は日本中にバラ撒かれました。
新しいトンネルが出来たことで、
新しい怪談が生まれ、
テレビによってさらに普及していきました。
歴史的条件、社会的条件の変化が、
トンネルの怪談の内容を変化させてきたと考えられます。

現在、ざっと検索しただけでも、
多数の心霊スポットを紹介しているサイトが見つかります。
そして、書籍雑誌類も数え切れないほど。
若者たちを標的に、より過激で攻撃的な恐怖が語られています。
それらで紹介されている場所には、
トンネルも多く含まれている訳で、
それを見てトンネルに多くの若者たちがクルマで向かいます。

時代は私的な空間としてのクルマ、
自分の部屋としてのクルマとなってきました。
そういう時代になってきた時に、
若者たちの怪談というのは、幽霊や妖怪が
「自分の空間に入り込んでくる、攻撃を加えるもの」に
変化していくことになります


飯倉義之先生のお話です。


人間はトンネルに対し、
今後も恐怖を感じ続けることでしょう。
そこはそれまでとは違う閉鎖された異世界。
その恐怖が新たな怪談を生み出していくことになります。



テレビ東京を見習え、と言われる時代

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民放キー各局は、
フジテレビを除き、視聴率も収支も好調だったようです。
ただ、フジテレビのみが厳しいようですね。
たしかに、フジテレビで今見ているのは、
「ホンマでっか!?」と
ドラマの「ファースト・クラス」ぐらい。
あとは「ネプリーグ」を時間次第で見る時があります。
(関西テレビ制作は除く)
今期のフジテレビの場合、
見ておけばよかったと思うドラマはあるものの、
バラエティでは皆無ですね。

先日の「めちゃイケ」が、
テレビ東京の「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」に
視聴率で負けたとニュースになりました。
たしかに、太川陽介さんと蛭子能収さんの
あの番組は面白いです。
たしか、あのお二人を呼んで、
TBSは「ぴったんこカンカン」で
同じことをしていましたよね。

テレビ東京の番組の多くは基本的に低予算ですので、
企画に頼らざるを得ません。
だから、特異な内容の番組が出て来る訳で、
そして、他局でテレビ東京を見習え、
なんていう話も出てくる訳です。

今、私が欠かさず見ているのは、
「YOUは何しに日本へ?」「開運!なんでも鑑定団」
「和風総本家」「137億年の物語」「美の巨人たち」など。
実は民放で一番たくさん見ているキー局です。
あとは「ポチたま」をBSJで。
これは遅れはあるものの多くの地域の地上波でも見られます。
「137億年の物語」は、子供たちにおすすめですね。
中学生ぐらいに合わせて作られているので、
よく知らない話でもわかりやすく、
主に世界史について知ることが出来ます。

どれも、タレントの色は薄いですよね。
企画に特色があるのも共通。
テレビ東京を見習えというか、
これまでもテレビ東京の番組は
他局にたくさんパクられてきましたよね。
「鑑定団」も他局2つぐらい番組が作られましたし、
大食いとか、大間のマグロとかも。
でも、かつては各局、
そういう創造力を備えていたのではないでしょうか。


各局の企画会議で何を話し合っているんだろうかと思います。
放送作家は何の仕事をしているだろうかとも。
結局、出来上がってくるのは
他局にあるような番組で、
似たようなものでも独自の味付けで、
オリジナルを上回るものがあればいいんですけれど、
出演料を高くすればいいと考えているのか、
出演者が豪華になったりします。
特にフジテレビなどは、
もう既に、ダメになっている訳ですから頭を空にして、
プロダクションとのしがらみなんかも、
そんなことを言っている場合ではないでしょう。

面白い番組

とは何だろうかとか、

継続的に見てもらえる番組

をどうすれば作れるかとか、
一から考え直すべきではないかと思うんです。
かつては面白い番組を作っていたと
認識されていたんですから、
また新たに面白い番組を作って欲しい願っています。




典子女王殿下と千家国麿さんご婚約内定 -神話の世界と現実と- ~大国主大神の国譲り~

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竹田恒泰先生の昨日のTweetです。

典子女王殿下と千家国麿様のご婚約内定を、心からお慶び申し上げます。千家様はゆくゆくは出雲大社の宮司をお務めになる方です。お二人のご結婚は、歴史的にも意義深く、皇室が出雲を重んじる古事記の精神を現代に体現するものと言えましょう。幸せなご家庭をお築きになることを願って止みません。弥栄
https://twitter.com/takenoma/status/471147653565149185

[典子女王殿下ご婚約] 現状で「典子女王殿下」を用いる主要メディアは産経のみ。他は「典子さま」を使用。オール殿下計画はまだまだだ。東京電力に負けてられぬ。以前寛仁親王殿下薨去で産経が「寛仁さま薨去」と報じた際、私は産経に抗議した。いまや産経だけが正しい敬称を用いている。
https://twitter.com/takenoma/status/471153286146306048


たいへんな慶事であることは当然なんですが、
典子殿下は女王という称号であることを
このTweetで初めて知りました。
調べてみますと、皇室典範で、
天皇からみて直系で三親等以遠の女性皇族について、
この称号を用いることが決められているようです。
そして、敬称の殿下をつける訳ですね。

他にもいろいろと考えさせられるご縁であります。
中でも、古事記、日本書紀ななどから
この出来事を考えずにはいられません。
昨夜の記事でこの話題をとも思ったんですが、
勉強し直さねばならないことに気付いたので、
資料を繰りました。



イザナギ(伊弉諾)とイザナミ(伊弉冉)の二神が降り立ち、
世界をかき混ぜて島などを作ります。これが日本。
その子がアマテラス(天照)、ツクヨミ(月夜見)、
スサノオ(素戔嗚)で、
スサノオの6(7)代後の子孫、
あるいはスサノオの子に
オホナムヂ(大穴牟遅神)がいました。

彼には大勢の兄弟神(八十神)がいて、
その兄弟たちが稲羽のヤガミヒメ(八上比売)の求婚するため、
従者としてオホナムヂは大きな袋を持って同行していました。

そんな時、海岸で泣いているウサギと出会います。
これが後に「因幡の素兎」として語られる話になっていきます。
ウサギを見ると、毛皮がはぎ取られていました。
ウサギはワニ(和邇/サメ)を欺き、
その報いを受けていたのでした。
八十神はウサギに「海水と日光と風に当たればよくなる」と
教えますが、酷くなるばかりで一向によくなりません。
オホアナノムヂはそんなウサギを助けようと、
蒲の穂を取ってまき散らし、
その上を転がりまわればよくなると教えました。
ウサギは回復し、そのお礼に
八十神の求婚をヤガミヒメが受け入れることはないと予言、
その後、彼の八十神は求婚しますが、
ヤガミヒメはそれを拒否、
オホナムヂと結婚するといいます。
これに怒った兄弟たちは弟を狩りだ偽って誘い出し、
殺してしまいました。

これを憐れに思ったオホナムヂの母神は、
高天原のカミムスビ(神産巣日)を頼り蘇生、
しかし、再び兄弟たちの罠にはまってオホナムヂは再び死に、
今度は母神自ら息子を蘇生させました。
その後、オホナムヂは木国(紀国)へ逃亡、
根の国(根之堅州国)のスサノオの元へと逃げ延びます。

根の国でオホナムヂは
スサノオの娘・スセリビメ(須勢理毘売)と知り合い深い仲に。
スセリビメは父にオホナムヂを紹介しますが、
スサノオは彼が気に入りません。
スサノオは無数のヘビがいる石室に彼を閉じ込め、
また、無数のムカデがいる石室にも閉じ込めましたが、
いずれもスセリビメの助けを得て、無事生還。
それでも納得がいかないスサノオは、
野に放った矢を拾うよう彼に命じ、
彼が野に分け入ったところでスサノオは火を放ち、
焼き殺そうとします。
しかし、オホナムヂの前に現れたネズミが
地面の穴へと案内し難を逃れ、さらに矢も見つかりました。
続けてスサノオは、
オホナムヂに自分の頭のシラミを取るように命じますが、
スセリビメの機転で、スサノオが寝ている隙に、
彼の髪を柱にくくりつけて、
オホナムヂを逃がしました。
スサノオは彼の力を認めて、
オホクニヌシ(大国主)の名を与え、
地上の統治を任せることにします。

オホクニヌシは出雲国へと戻り、
スクナビコナ(少名毘古那)やオホモノヌシ(大物主)の助けを得て、
国造りを進めていきます。

地上が繁栄してくると、
アマテラスが、自分の息子こそが
地上を治めるのに相応しいと考えるようになります。
そこでアマテラスはオホクニヌシに国譲りさせるべく、
第二子・アメノホヒ(天穂日)を
使者として送りますが、
彼はオホクニヌシに臣従してしまいました。
次の使者はオホクニヌシの娘婿となり、
思ったようにはなりません。
やがて、オホクニヌシは隠居の身となりますが、
その頃、アマテラスは新たな使者として、
タケミカヅチ(武甕槌)、
アメノトリフネ(天鳥船)を派遣、
オホクニヌシの子・ヤヘコトシロヌシ(八重事代主神)から、
ようやく、国譲りを認めさせることが出来たのでした。


大国主の大神様のお導きのもと、
このような素晴らしい方と
ご縁をいただきましたことを大変うれしく思っております


千家国麿さんはこのようにお話しになりました。

出雲大社はオホクニヌシを祀った神社。
国譲りに感謝し、アマテラスが建造させたとされます。
千家家は代々出雲大社の祭祀を担う
出雲国造(いずものくにのみやつこ/いずもこくそう)を務めていて
現在は千家国麿さんのお父様が第84代のようで、
次に継がれるのは国麿さん。
家系図にはアメノホヒが見られ、
つまりはアマテラスの子からの家系。

典子女王殿下は薨去された高円宮憲仁親王殿下の次女で
大正天皇の曾孫。
初代天皇の神武天皇はニニギ(邇邇芸)の孫とされていて、
ニニギはアマテラスの孫。
天皇家、千家家ともに、
祖神にはアマテラスがいる訳で、
神話と歴史の間で、
まさしく現実のご婚約があった訳ですね。
しかも、昨年は大遷宮があり、
さらにはご婚儀は秋ということで、
もしも、旧暦十月ですと、
我々にとっての神無月、
出雲にとっての神在月、
八百万の神が出雲に集まるからそう言われる訳ですが、
その時になるのかもしれません。
出雲大社の参拝者が、
さらに増えそうな出来事となりますね。




かまって欲しいネコたち -ネコ動画-

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人間に構ってもらうことで、
ネコたちは何千年も生き延びてきました。
人間を気を惹く能力を進化の過程で得ているのかもしれません。




これ、よくされましたねえ。
自分に注目して欲しい時には、
視線の先に陣取っていました。





これはネコを乗せたのか、
ネコが乗ったのか…?


その場所にいることが
さも当然であるかのようなネコ。






なかなかの欲張りです。


これはちょっと可哀想ですね。



最後には願いが叶いますけれど。





構って欲しい気持ちはネコを2足直立、
この姿になられては抱き上げない訳にはいきません。



軍師官兵衛 第21話「松寿丸の命」 その背景 ~毛利軍が東進して来ない理由~

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柴田恭兵さん、田中哲司さん、中谷美紀さん、
見ものの演技ですね。
さて、この摂津国は織田信長の勢力下にありました。
そして、織田を裏切る形で、荒木村重が謀反、
しかし、その後の展開は予想出来ていませんでした。
まず村重に謀反を唆したともされる配下の中川清秀が織田軍に寝返り、
さらには、高山右近にまで去られてしまいました。
これだけならまだしも、
肝腎の毛利軍がやって来ません。



ここでは、日延べになったという書状が届いています。
なぜ、毛利軍は来ないのでしょうか?
劇中にあるように、
宇喜多直家の存在もあるでしょうが、
播磨や摂津を見ているだけではわからない
それよりも大きな理由について考えます。

播磨入りした毛利軍は上月城を攻めた訳ですけれど、
さらに、東進して東播の別所などに合流するのが
織田軍と戦うためには必要だったはずです。
しかし、謀反がその先の摂津で起こっても、
未だ毛利は動きませんでした。

毛利は有岡などに兵糧の補給をしつつ、
援軍を約束していましたが、
それは開戦から1年経っても果たされることはありませんでした。
あまりにも来ないので、村重自身安芸へと向かい、
毛利に直談判するつもりだったようです。

有岡城を攻めている頃の織田軍は、
中国方面にのみ注力していた訳ではありませんでした。
石山本願寺への調略も進めつつ、
豊後国の大友宗麟を動かし、
毛利の背後を突かせています。
毛利軍は織田軍に専念できませんでした。
中国から播磨へ兵糧も運ばねばなりません。
しかし、その輸送路が延びきることは、
古来より兵法で下策とされています。
だから、海路での輸送となりますが、
ここで織田軍は鉄甲船を開発、
先の木津川で毛利水軍に対し惨敗したのを
同じ木津川でやり返しています。
こうなると、石山本願寺への補給も厳しくなり、
三木や有岡に援軍を送るどころか、
まずは中国を安泰にすることが最優先となります。
有岡城の荒木村重は石山本願寺軍の援軍も期待していましたが、
これが来ることもありませんでした。
毛利も織田信長を包囲すべく、
各勢力と連携を取っていましたが、
頼みの上杉軍も上杉謙信の死後、
上杉家ではお家騒動が起こっていて、
織田軍どころではありませんでした。
黒田官兵衛はそれを踏まえつつ、
織田が有利だと考えていたのかもしれませんね。














ダーウィンが来た!生きもの新伝説「フラミンゴ30万羽!謎の大行進」 その1 -動画を少し-

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先週の番組からフラミンゴを。
フラミンゴと聞いて、どうな姿形なのか
イメージ出来る人は多いとは思うんですが、
その生態を知る人は少ないように思います。

アフリカ南部、ボツワナ共和国マカディカディ低地、
この低地の東部は草原で、
その西には塩湖が広がっています。
乾期には水はなく、乾いた塩の地面となりますが、
11月、雨期になると、東部には池が、
西部には塩水の湖が出現することになります。



そこに30万羽のフラミンゴが飛来。
雨の少ない時にはここに訪れず、
雨量の多い年の大きな塩湖が出現する時にだけ、
ここに現れるといいます。

ここに飛来するのは体長80cmと
フラミンゴの中では最小のコフラミンゴ。



そして、その倍ほどの大きさのオオフラミンゴの2種。



アフリカ南部全域から、
遠くは1000km以上遠くのマダガスカルから、
この低地にフラミンゴたちが集結する訳ですが、
なぜ、彼らは真水ではなく、塩水の湖に集まるのでしょうか?
お目当てはこの藍藻。



塩分を好む植物プランクトンです。
フラミンゴのくちばしには、
細かい家が櫛のように密集して生えていて、



上を下にして水の中に入れつつ、
下を引っ込めることで水とともに藍藻を吸引、



舌を膨らませつつ、くちばしを閉じることで、
藍藻だけを漉し取って食べています。



この種の藍藻を食べるのはフラミンゴだけ。
この藍藻を食料にしたことで、
その食料を独占できている訳です。
食料面では楽園のこの塩湖ですが、
塩湖にいては、水も飲めず、
体が汚れやすく、汚れた体も綺麗に出来ません。
そこで、時々、
このマカディカディ低地の東部の池に飛んでいきます。
しかし、この水辺は他の動物たちも集まる場所で、
このようなアヌビスヒヒたちの



狩りの場にもなっています。
フラミンゴには飛ぶための翼がありますので、
飛んで逃げれば良さそうですが、



フラミンゴが飛び立つためには
長い助走が必要で、
そのために逃げられずに餌食になってしまうことに。
真水を得るためには、
命賭けになってしまうフラミンゴたちでした。
逆にいえば、だからこそ、
普段は塩湖にいるのというのが彼らの選択なのでしょう。



次はフラミンゴの体がピンクである理由と、
子育てなどについてのお話へと続きます。
タイトルには「行進」とありますが、
鳥が「行進」とは…?








ダーウィンが来た!生きもの新伝説「フラミンゴ30万羽!謎の大行進」 その2 -動画を少し-

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http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11867202272.html



こちらからの続きです。

フラミンゴは6種が記載されていますが、



程度の差はありますが、
体色がピンクやオレンジ、赤系の色をしています。

これはフラミンゴの中でも特に色の濃い
南米や中米に暮らしているベニイロフラミンゴの親子ですが



子供は赤くありません。
フラミンゴの色は餌に由来しています。
藍藻類に含まれるβ-カロテンやカンタキサンチンの色が、
体色となって現れています。
日本中の動物園で見られるフラミンゴですが、
専用の餌の他に、オキアミなどを混ぜて、
フラミンゴの色を維持しているんですね。
フラミンゴの体の色は、健康状態を表しているともされ、
色の濃い個体のほうがよりよくモテることが知られています。





12月、マカディカディ低地のフラミンゴたちにとっては
子育ての季節です。
この時期になると、
フラミンゴたちは天敵を避けるために中州に集合、
そこに巣を作る訳ですが、その巣材は泥。



木の切り株のような円筒形で、
その上の窪みに卵を産みます。
高さは30cmほどあり、これは水位の上昇に備えたもの。
また、泥には水がたくさん含まれていますので、
その気化熱で熱くなりすぎないようになっています。
天敵がいない場所ですので、
1回の産卵でメスが産むのは1つの卵。
抱卵は1ヶ月間行われます。

この低地で産まれる雛は最大の年で3万羽。
まさしくここはフラミンゴの楽園なのかもしれません。



産まれた雛はまだ赤くありませんが、
親からもらう特別な分泌液をもらうことで、
少しずつ赤くなっていきます。
それが通称「フラミンゴミルク」。



この動画では、手前のフラミンゴミルクを
与えていないほうの個体のくちばしから、
赤い液体がしたたり落ちているのが確認出来ます。
親が藍藻などから得た赤い色素を、
雛に与えているんですね。

孵化して10日ほどになると、
少しずつ巣から離れて出歩くようになります。
しかし、灼熱の日光の下、
すぐに親元へと引き返してしまいます。




5月は乾期。
フラミンゴの楽園にフラミンゴはもういません。
ここに雨が降るのは半年後。
乾期になると、多くの動物は水を求めて移動します。
フラミンゴも例外ではありません。



北には水が残っている場所があります。
そこまで30万羽のフラミンゴの大移動となります。
その距離、100km。

親たちは空を飛べるため、
100kmの移動はさほど苦にはならないかもしれませんが、
子供たちはひたすら2本の足で歩いて行くしかありません。
親たちは先に水場まで行き、
食事をしては移動中の我が子の元へと戻り、
フラミンゴミルクを与えて、
また、水辺へと急ぎます。
それを何度も何度も繰り返すのでした。





元々、雛たちが歩いているのは湖でした。
そして、目指す残された水場に近づけば近づくほど、
泥沼は厳しくなっていきます。
小さな体に泥がまとわりつきます。



塩分を大量に含んだ水は粘性が高くなります。
この巨大な泥の重りが、
雛たちの命を奪うことも。




大移動開始から数週間後、
雛たちは目的地に辿り着きます。

6月、大地の乾燥はさらに進み、
残された水場もやがて枯れてしまうでしょう。
しかし、子供たちは自分で空を飛べるようになっていました。



自分の力で次の目的地、
海辺へと辿り着くことでしょう。








ダーウィンが来た!生きもの新伝説 各ページリンク

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ダーウィンが来た!生きもの新伝説

「ダーウィンが来た!生きもの新伝説」の記事では、
動画を交えつつ、番組と生き物たちをご紹介しています。
そんな記事へのアクセスが多いようですので、
まとめリンクページを作成しておきます。
なお、記事のタイトルは文字数制限などで、
こちらとは異なっています。
ご覧になりたい動物、テーマをクリックしてみて下さい。



アナホリフクロウ
「フクロウ一家 びっくり地下生活」


ケープペンギン
「町をペタペタ!子育てペンギン」


ビーバー
「森を作る建築家 ビーバー」


オナガラケットハチドリ
「羽でバンザ~イ!謎のハチドリ」


キジオライチョウ
「巨大ライチョウ 荒野の決闘」


ドングリキツツキ
「ドングリ蔵を守れ!キツツキ家族」


ヒメチョウゲンボウ
「世界遺産の街から羽ばたけ!」


サシバ
「タカがタカを襲う!?里山の攻防」


コウロコフウチョウ
「踊る!密林のダンス学校」


ツシマヤマネコ
「大追跡!幻のツシマヤマネコ」


スズメ
「秘密だらけの隣人」


ヘビクイワシ
「ヘビにキック!美脚の鳥」


クサフグ
「最強の小心者!? 猛毒フグ」


クビナガカイツブリ/クラークカイツブリ
「恋して水上ダッシュ!」


ティティ
「子育ては父の仕事!アマゾンの“育メン”ザル」


キガタヒメマイコドリ
「まるでスズムシ!羽で鳴く鳥」


ハヤブサ
「ハヤブサ一家 高層ホテルがマイホーム」


イッカク
「幻のクジラ・イッカクを北極に追う!」


ラッコ
「密着!ラッコのぷかぷか生活」


ハシビロコウ
「コワモテの秘密」


アフリカウシガエル
「命がけの子育て!カエル父さん奮闘記」


シロフクロウ
「シロフクロウ一家 北極圏の大冒険!」


コアラ
「走る!泳ぐ!戦う!? 野生のコアラには驚きがいっぱい!」


オシドリ
「オシドリ夫婦は本当にアツアツか?」


モズ
「小さな狩人モズ!」


オオミズナギドリ
「華麗な飛行と森での奮闘!」


ズキンアザラシ
「鼻から風船!? 珍獣ズキンアザラシ」


エリマキシギ
「えっ!鳥がお芝居?白夜の恋」


ハゲブダイなど
「寝袋でグッスリ!?眠る魚の秘密」


ハキリアリ
「パナマ・ハキリアリの地下王国に潜入!」


インドクジャク
「クジャク 美しさの秘密に迫る!」


ダンゴムシ
「子どもたちのアイドル! ダンゴムシの秘密」


ウツボ
「口が2つ!?スーパー怪魚ウツボ」


シクリッド / カンパンゴ
「アフリカ古代湖 魚たちの子育て大作戦!」


カブトムシ / ノコギリクワガタ
「大研究!昆虫王者 カブトムシ&クワガタ」


オットセイの子供たち
「森で発見!オットセイの秘密基地」


シマスカンク
「無敵!スカンクの真実」


ブチハイエナ
「"悪役"ハイエナ 意外な素顔」


イチジクとイチジクコバチ
「アフリカ サバンナの巨木と小さなハチ」


アライグマ
「アライグマ 黄金の前足」


カモノハシ
「珍獣・カモノハシの三大ふしぎ!」


シロイルカ
「命がけ!シロイルカ"脱皮"大作戦」


シロミミオポッサム
「南米・珍獣オポッサム サバイバル大作戦」


トサカレンカク
「水上の“育メン鳥”」


カクレクマノミ
「人気者カクレクマノミの意外な素顔」


ハチクマ
「衝撃!ハチクマ軍団VSスズメバチ軍団」


オオフラミンゴ / コフラミンゴ
「フラミンゴ30万羽!謎の大行進」







ダーウィンが来た!生きもの新伝説

歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎~」 その1

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「戦国無双4」でもプレイヤーキャラとして登場しましたけれど、
彼女は井伊家の当主でした。
男子が家を継ぐという常識の中、
遠江の国人に過ぎなかった井伊家を戦国の世の中で
いかにして彼女は徳川家筆頭にまでしたのでしょうか。


井伊家は遠江国、井伊谷(いいのや)の国人領主で
15ほどの集落を束ねていました。
主は今川家。
直虎は1535年頃、井伊直盛に生まれた娘。
もちろん、直虎は後に名乗る名前ですが、
幼名はわかっていません。
当然、女の子としての名前があったことでしょう。



女にこそあれ井伊家惣領に生まれ候

平安時代から続く井伊家の記録「井伊家傳記」には、
このように書かれています。
惣領は嫡子、跡継ぎのことですが、
本来であれば、女性である彼女が井伊家を継ぐことはありません。
直盛に男子がいないため、直虎が5歳の時に許嫁となった
いとこの直親が家督を継ぐのであろうと、
そう考えられていました。

しかし、直虎が10歳の頃、
直親が井伊家の跡継ぎとなることに不満を持つ家老らの陰謀で、
直親の父が今川義元への謀反の疑いをかけられ、
直親も殺されそうになります。
それに気付いた直親の親族が彼を信濃に逃がし難を逃れますが、
主の直盛はその家老一味を罰することはありませんでした。
家中の混乱を恐れたものと考えられます。

突然、許嫁を失った直虎。
父は直親の所在どころか生死すら明かそうとはしません。
それが井伊家の跡継ぎ直親と
井伊家を守るために必要だと考えたのでしょうか。

しかし、突然、許嫁を失った直虎は、
周囲を驚かせる決心を見せます。
剃髪して出家したのです。
彼女の父母は嘆きつつそれを止めたとされますが、
彼女の決心は固かったようです。

1555年、尼僧となった彼女が21歳の頃、
井伊家から手紙が届きます。
そこに書かれていた内容に彼女は驚かされました。
なんと、直親が生きており、
間もなく戻ってくるというのです。

彼が生きているのであれば、
何のために出家したのか、
既に仏門に入った身であれば、
彼との婚儀も不可能です。
直親は帰国すると、別の女性と結婚、
男子・虎松も生まれました。

しかしも直親が井伊家の家督を継ぎ、
さらには男子も生まれたというのに、
直親が殺されてしまいます。
直親が松平元康(後の徳川家康)に内通したと、
今川家が疑っていたのです。
井伊谷は井伊家が治めていて、
その上に今川家がありましたが、
今川家には井伊谷を直接支配しようという狙いがあったようです。
遠州は混乱に次ぐ混乱で、
「遠州錯乱」と呼ばれるようなそんな時代でもありました。

直親が殺され、井伊直盛は既に桶狭間で戦死していており、
残る男子は虎松のみ。
しかし、虎松はまだ2歳。
そこで直虎が呼び戻されることになります。

この頃、彼女は次郎法師と名乗っていました。
尼僧の名ではなく、男性の僧の名前です。
彼女は男性として出家していたのかもしれません。
当時の禅宗の考えでは、女性が出家すると、
二度と俗世には戻れないという考えがありました。
そこで、井伊家はもしもの時のために、
彼女を男性として出家させていたとも考えられます。
とはいえ、結婚は出来ませんので、
直親が帰国していても結婚は叶わなかったのです。


時は乱世。各地で群雄割拠、
今川家からどれだけ酷い仕打ちを受けていても、
今川家が支配する遠州で井伊谷を守らねばなりません。
井伊直虎はそんな井伊家の主となりました。
この時代の国人領主には、
大名から戦費となる兵糧の供出が求めが繰り返され、
領民たちからは年貢が高いと苦情が出ます。
一揆になってはたまりませんので、
領民たちに酒を振る舞ったりも。
こういった国人領主の中には、
その板挟みに絶えかね、
その土地を売り払った者もいたんだとか。




直虎の署名が見えます。
これは井伊家の主となった井伊直虎の書状。
署名の下に見えるものは花押で、
書き判とも呼ばれるサイン。
当時、花押は身分のある男性が用いるもので、
直虎は男として振る舞おうとしていたのかもしれません。
対外的にも、直虎が女性であることは
あまり知られていなかったようです。
直虎という勇ましい名前も、
井伊谷の領主となってから使用している名前なのでした。

上に今川家を頂き、下に領民を抱える身となった直虎には
政治手腕も求められます。
ある時、耕作が不作で井伊谷の農民が今川家に直訴しました。
今川家は直接井伊谷を治めている井伊家に
徳政令を出すように命じます。
借金を棒引きにしろということなんですが、
それは井伊家にとって出来ることではありませんでした。
経済状態が常に苦しい井伊家は、
商人たちに借金することで切り盛りしていて、
もしも、徳政令を出したならば、
それら商家が破綻し、以後、井伊家は借金が出来なくなります。
かといって、徳政令を出さずにいたなら、
農民たちが一揆を起こすかもしれません。
さらには、今川家の通達に従わなかったことにもなります。
実は、これは今川家の陰謀。
徳政令を出すにしても、出さないにしても、
井伊家を追い込むことで、
井伊谷を奪ってしまおうという考えなのでした。
直虎はいかしてこの危機を乗り越えたのか、
お話は明晩へと続きます…


歴史秘話ヒストリア「それでも、私は前を向く~おんな城主・井伊直虎~」 その2

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こちらからの続きです。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11868761476.html



治める井伊谷で不作が続いたと言う理由で、
大名の今川家から徳政令を出せという通達が。
しかし、徳政令を出しては今後の井伊家の経済が成り立たず、
領内も混乱します。
出さなければ一揆の可能性があり
また、今川家の通達に背くということになります。
この板挟みに井伊直虎は直面します。

ここで直虎の決断は徳政令を見送ることでした。
商人を保護し、井伊家の資金調達を優先したのです。
ただし、今川家に対しては、
徳政令を出さないとは伝えず、
商人、領民たちへの説明、説得のための時間が必要だとしました。
こうして時間を稼いでいる間に、
農民たちの動向に気を配りつつ、
商人たちへ「徳政令免除」の特別措置を与えます。
元々は農民救済という名目で出された今川家の通達でしたから、
今川家から文句は出せないはずでした。
しかし、井伊谷を混乱させ、
その直接支配が目的の今川家からは、
徳政令の先延ばしを非難する書状が。
それでも、直虎は粘り強く時間を稼ぎ、
徳政令を出しても領内の混乱を
出来るだけ少なく出来るよう準備を進めていきます。
今川から徳政令を出すように命じられてから、
1年半、ついに徳政令が出されますが、
それだけ長い期間準備してきた甲斐もあり、
今川家が目論むような大きな混乱は起きませんでした。

この井伊谷徳政騒動の中で、
彼女はこの寺も守り切りました。



龍潭寺は幼くして出家した直虎が過ごした寺。
当時の寺社には、金融業のような役割もあり、
もしも、徳政令が出されたならば、
貸した金も戻らず、担保も手放すことに。
これでは龍潭寺も経済的破綻を向かえてしまいます。
直虎は担保の土地については徳政令から除外するとして、
寺を危機に陥らせるようなことはしませんでした。

見事なバランス感覚で徳政令を乗り切ったように思われましたが、
今川家は井伊谷を諦めてはいませんでした。
元々、徳政令は今川家が言い出したことですが、
井伊家が徳政令を出したら出したで
井伊家には統治能力がないといいがかりをつけ、
武力で井伊谷を押領してしまいました。

城も領地も失った井伊直虎。
彼女が身を寄せたのはあの龍潭寺でした。
この時点で、井伊家は滅びたともいえます。
直虎は井伊家再興のための道筋を考えるようになります。

この時期になりますと、遠州では徳川家、
武田家に攻められた今川家が滅亡し、
遠州の各国人たちは徳川と武田のどちらに味方するか、
決めなければなりませんでした。
徳川につく者、武田につく者とその数は相半ば、
そんな中、直虎が選んだのは徳川家でした。

後に天下人となる徳川家康でしたが、
この頃はまだ今川家配下から脱して間もなく、
織田信長と同盟関係にある大名とはいえ、
従属関係にあるというのが実情。
それでも、直虎が徳川を選んだのはなぜでしょうか。

理由は定かではありませんが、
亡き元許嫁である直親が生前、
今川家を捨てて徳川家配下となろうとしていた節があります。
生まれたばかりの虎松を家康に仕えさせようとしたとも。
直虎は生前の直親のその選択を知っていて、
それに従ったのかもしれません。

1575年、虎松は15歳。。
この頃の直虎は41歳ぐらいでしょうか。゛
彼女は養子・虎松を徳川家康に
家臣として取り立ててもらえないかと考えます。
しかし、この時の井伊家は領地もなく
ただの浪々の身の上の者が大名に目通り出来るはずもありません。

そこで彼女は家康の行動や習慣を調べ上げ、
彼が鷹狩りに出る時に狙いを定めます。
彼女はその時のための直政の正装を
手ずから縫い上げます。
その日、直政は家康が鷹狩りで通るであろう道に正装して待ち構え、
馬を止めたところで、
直政が井伊家と徳川家の関わりについて述べます。
そして、自らも徳川家に仕えたいと願い出ました。

只者ならざる面ざしの小童

その時の直政の印象について、
家康はそう話しています。
家康は直政をひと目で気に入り、
小姓として万千代という名前まで授けています。
井伊谷所領も許され、井伊家は再興しました。
その後、直政は数々の戦で戦功を上げ、
時には家康の寝所に迫った刺客を撃退、
その武勇は敵味方を問わず驚かせるものでした。
そして、彼が22歳の時、
井伊家当主として井伊直政と名乗るようになります。



これは直虎が直政に贈った四神旗。



直虎自身の筆だと伝わります。


直虎から井伊家の将来を託された直政は、
彼女が思う以上に出世していきます。

1582年、本能寺の変。
織田信長が謀反に遭った時、
徳川家康は堺にいました。
従えているのは少数の供連れ。
その中に井伊直政もいました。
明智軍らの手をかいくぐり、
三河まで戻らねばなりません。
伊賀を越える山中、何度も落ち武者狩り、
野伏の襲撃を撃退する直虎。
後に言う「伊賀越え」。
この時の功労の褒美として家康が与えたのがこの陣羽織。



この孔雀尾具足陣羽織は、
貴重な孔雀の羽が無数に使われています。

井伊谷の国人から没落、
そして、徳川家筆頭、
幕末には大老職まで出すような家柄となります。


1582年、井伊直虎死去。
48歳ぐらいでしょうか。
その墓は井伊家菩提寺の龍潭寺にあります。



右が井伊直虎の墓。
そして、その左がかつての許嫁・直親の墓なのでした。



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/ひこにゃんのひみつ! ~井伊氏の歴史 -直政と直孝-~
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11240902154.html




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六四天安門事件 ~四半世紀後の今でも、今だからこそ~

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VIIV

これが何かおわかりになるでしょうか?

5月35日

そして、

82

いずれも

六四

を指す隠語です。
私たちにとっては、ただ2つの数字が並んでいるだけですが、

六四天安門事件

の考察をタブー視する中国政府は「六四」でのネットを妨害し
そのために、ローマ数字、あり得ない日付、
8の2乗という形の隠語が生まれました。





今日は6月4日、私にとって終生忘れがたい日である。25年前のこの日、中共政権が戦車部隊まで出動して丸腰の若者たちを惨殺した。そして25年が経った今でも彼らの圧政が続き、虐殺の手をウイグル人にも及びアジア全体に侵略の脅威を与えている。6月4日は、諸悪の根源の中共打倒を誓う日である。
https://twitter.com/liyonyon/status/473949269255131138

石平さんのTweetです。
彼は四川省の生まれですが、
1989年6月4日、天安門での学生大虐殺事件を以て、
祖国に別れを告げようと考え始めたそうです。


天安門事件について考えるには、
この趙紫陽元総書記の



「極秘回想録」を読んでいただきたいですが、
1日、こんなニュースが世界に配信されました。

中国 天安門事件で失脚の趙紫陽元総書記の側近連行
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140601/k10014891281000.html

趙紫陽氏は民主化運動に理解を示していましたが、
どうやら、中国共産党は彼の元側近の身柄を押さえ、
メディアから隔離する魂胆のようです。
ここのところ、このような全くいわれのない逮捕が相次いでいます。
特にデモを呼びかけた訳でもないのに、
現代史を研究しているだけの教授や、
天安門とは無関係でも、
大勢の人を集めて講演すると目を付けられてしまいます。

プロレタリア独裁が継続している国家はないとして、

西側の議会制民主主義体制こそが実現可能な最高の体制だ

と趙紫陽は述べています。
また、市場経済を導入したとしても、
政治体制も

近代化を望むなら、議会制民主主義を採用すべし

と変革を求めていました。
もしも、それがなされないならば、

腐敗が蔓延し、社会は富裕層と貧困層に分断するだろう

と予言しています。
現実にそのとおりになっています。

昨年のボストンマラソンの犠牲者の中に、
23歳女性がいました。
彼女は中国から留学生。
それが判明したとき、哀悼以上に、
微博などでは別の大騒ぎが起きました。

中国の富裕層は、家族や親族、
そして資金をアメリカなどの海外に逃がしているとされますが、
彼女の親族がそうではないかというのです。

中国の権力者自身が自国の未来に希望を持たず、
希望を持てる国にしようともしないんです。
自分も逃げられるようにと、
その努力をするような、そんな国です。



ウアルカイシ氏。
カタカナではウーアルカイシ氏、ウルケシ氏とも書かれますが、
漢字ではなくなぜカタカナかといえば、
彼がウイグルにルーツを持つからです。
現在も彼の家族はウルムチに在住です。
2010年にノーベル平和賞を受賞した
民主活動家の劉暁波氏の教え子でもあり
天安門事件で学生運動のリーダーのひとり、
以後、台湾を拠点に、「民主運動人士」として
世界に向けて中国の民主化を訴え続けています。

問題は中国が世界のルールに従うのか、世界が中国の横暴なルールに屈するのかだ

彼はそう述べます。
日本に対しては、

普遍的価値を持つ国と専制独裁の国との間で衝突が起きれば、日本は当然有利な側にいる

としつつも、

関心があるのは経済だけだという誤ったシグナルを出している

という批判も忘れません。

先日、ウイグルでは、
これまで中国政府との対話の窓口となっていた活動家が逮捕されました。
彼はウイグルを独立国家として扱えと訴えていた訳ではありません。
いわゆる穏健派であるのに、
中国政府は強権的に彼を罪人にしてしまいました。
この事実に、中国の少数民族は絶望しているといいます。

いつか、天安門事件の犠牲者たちの理想が実現されるという希望が、私にとって唯一の救いだ

彼も天安門事件当時の学生運動の活動家の中では、
穏健派でした。

生物学的には、人の死はその生命活動の停止を以て断定されますが、
観念の中では、その人は生き続けていて、
その人に本当の死が訪れるのは、
その人のことを誰も思い出さなくなった時です。
25年前、あの天安門の学生たちは暴徒として
暴力に訴えていた訳でありませんでした。
ハンガーストライキなどの手段で、
民主化を訴えていましたが、
そこに戦車が現れ、学生たちに銃撃しました。



彼らが求めた民主化の精神は
その時から四半世紀が過ぎても、
まだそこに生き続けているはずです。
しかし、彼の国では都合の悪い歴史は教育していないため、
現代の若者たちは「六四」「天安門事件」といっても、
わからない人が増えているといいます。
真実を知ろうとする我々は、
当時の学生たちに真実の死を与えてはなりません。






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