Quantcast
Channel: テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

軍師官兵衛 第14話「引き裂かれる姉妹」 ~山中鹿之助"我に七難八苦を与えたまえ"~

$
0
0

山中鹿之助が出てきましたね。
いつもとは雰囲気の違う別所哲也さんでした。
次も見られればいいんですけれど。



山中幸盛、通称鹿之助は尼子家に仕えた人です。
武勇に秀でたことで知られ、
尼子十勇士の筆頭に挙げられています。

尼子氏は出雲の国の大名で、
(第二次)月山富田城の戦いにて毛利元就と戦いました。
毛利軍は月山富田城に籠もる尼子軍を兵糧攻め、
さらに、讒言の策略に騙されるなどして士気を失わせるなどして
この戦いは尼子義久の降服で終わることとなります。
ここで、尼子氏は滅亡したともいえますが、
主・義久降服の際に供を許されなかった山中鹿之助が
叔父の立原久綱らと尼子氏再興の戦いを開始することとなります。

まずは京で出家していた尼子誠久を立てて、
隠岐国から出雲に進出し、尼子家元家臣たちを吸収し、
尼子再興軍はその数を6000にまで拡大、
真山城を拠点に出雲国一帯をほぼ手中に収めるまでに至ります。
ただし、かつて尼子家の本拠地であった月山富田城はまだ
毛利軍の本拠地のまま。
ただし、この時点で毛利軍の本隊は四国や北九州に出ていて、
1569年7月、手薄になっていることから鹿之助らは攻城戦を仕掛けます。
手薄とはいえ、防御側には城という強みがあります。
尼子再興軍は策略で敵将を誘い出すなどして善戦しますが、
攻略に至らぬまま半年が過ぎていきました。
1570年1月、北九州に出ていた毛利軍が救援として到着、
その数、一万数千。
再興軍に反撃の機会はなく、
翌年、山中鹿之助は伯耆国・末吉城に籠城するも陥落、
続いて、再興軍の拠点・真山城も落ちてしまったのでした。

毛利軍は捕らえた山中鹿之助を処刑するつもりだったようですが、
軍の中に彼の助命を願い出る者たちがいて、
命だけは助けられることとなりました。
ただし、囚われの身。
彼は赤痢をわずらったとして厠へ連れていってもらい、
厠の穴から汲み取り口を目指して進み、
脱出を果たしました。
また、叔父・立原久綱も真山城から脱出、
尼子氏再興の戦いを再開します。

しかし、既に数少なくなってしまっていた再興軍でしたので、
京へと向かい、毛利と敵対する織田信長を頼ることとします。
再興軍は再び快進撃、
1573年12月だけで、15の城を陥落させ、
東因幡を支配下に置き、
翌年、ここに尼子氏再興を果たしたのでした。
しかし、織田信長が毛利に対し、
山中鹿之助を支援しないことを表明し、
信長の勢力拡大に危機感を感じた但馬の山名祐豊が
毛利と和平を結ぶなど、
めまぐるしく周辺情勢が変化して、
毛利の勢力が再び因幡の国内で増していきます。
結局、再興軍は因幡を諦め、
今度は、織田配下としての再興を目指すことにしました。
織田軍としての鹿之助は、
松永久秀が籠もる信貴山城の戦いで戦功を挙げ、
続いて、羽柴秀吉の播磨遠征にも加わり、
落とした上月城に、主・尼子勝久ともに入ります。



この後、大河ドラマでどういう描写になるのか、
そもそも描写があるのかも不明ですが、
今はこのあたりですね。
調べてみて初めて知ったんですが、
彼の墓は広島、岡山、島根、京都に
計十ヵ所ぐらいあるんですね。
それは彼の死に方も関係あるんですが、
多くの人が彼を慕ったということが関係あるでしょう。
有名人でも、頼山陽は鹿之助を「鹿に非ず。麒麟である」と、
勝海舟は逆境に挑み奮闘した様を大石内蔵助とともに讃えています。
自分は常に山中鹿之助を愛する者であると言ったのは
板垣退助でした。

16歳の時に、彼は月に願掛けをします。

三十日以内に武功を立てさせ賜え

その願いが叶ったのか、
因幡・伯耆で知らないものがいないほどの豪傑を
一騎打ちで討ち果たしています。



そして、願を掛けた月が三日月だったことから、
彼は三日月を信仰の対象としていたとされていて、
絵などにも、兜には三日月の前立てが見られます。

我に七難八苦を与えたまえ



彼は三日月にこうも願ったとされてもいます。
そして、その理由を

憂きことの尚この上に積もれかし限りある身の力試さん

この歌で述懐しています。
上の言葉と歌は、当時自由党党首だった板垣退助も
議会解散の際に党員に向かって使用していますね。








Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

Trending Articles