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歴史秘話ヒストリア 「看護婦が見た世界大戦の真実」 その2

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こちらからの続きです。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11848435500.html


フランス中部の街、リモージュ。
ここのフランス軍病院医療史料部には、
19世紀からアフガニスタン紛争までの
フランス軍傷病兵の治療記録が収められています。
ここに第一次世界大戦下のパリの日赤病院の記録もあります。
およそ900人の患者の名前が確認出来、
中でも銃弾や砲弾による負傷が多く見られます。
毒ガスによる熱傷も。
右腕と胃を撃たれた者、
頭部と脊椎に砲弾の破片が突き刺さった者…。
第一次世界大戦は、大量殺戮兵器が登場した戦争でした。
1分間に数百発もの銃弾を撃つことが出来る機関銃、
その機関銃の弾丸を跳ね返す戦車による砲撃、
それまでは地上と海上が戦場でしたが、
戦闘機の出現により、それは立体化されます。

それは、竹田ハツメらが経験していた日露戦争とも別次元のものでした。

日露戦争の時と
今度の戦争の負傷者を比べますと
みな一様に残虐のあとが推察されます
日夜重症患者を取り扱っている私たちですら
戦慄を禁じ得ません



アンドレ・ロシニョル=デュ=ベレイは
記録によれば、砲撃を受けて首と左肩に重傷。
当時、彼は航空部隊に所属、
僚機が撃墜され、地上で救助にあたっている中、
敵の砲撃に見舞われました。
砲弾の破片は右肩に突き刺さり、
左肩まで貫通していたそうです。
首全体が傷に覆われ、化膿が酷く、
彼はもう助からないだろうと皆は思いました。
当時の医療現場では、感染症が大きな問題で、
戦場での負傷の場合、特に細菌による感染症で
多くの命が失われていたんです。
ベレイの場合も、既に化膿が酷かったようですが、
パリの日赤病院で、消毒したシーツにくるまれました。
そのシーツを1日に3回交換し、
常に傷口を消毒することで、
彼は回復へと向かっていったのでした。

ある日、日赤病院に一人の若い女性が駆け込んできました。
彼女は砲撃により視力を失って
ベッドに横たわっているリッセルの婚約者でした。

病室に来た時のミルラは
ほとんど正気を失っていました
そしてはらわたもちぎれんばかりの声で泣くのです
そんな姿を目にして
私も思わず同情の涙にかきくれました


そんなミルラとハツメは言葉を交わすようになり、
やがて、リッセルの看護をミルラが手伝うようになります。
彼は二人の献身的な看護の甲斐もあって、
心の傷が少しずつ癒えていき、
退院することができました。
そして、約束どおり、二人は結婚したのでした。
ハツメがミルラから受け取った手紙です。

彼はもう二度と目を開くことはできません
けれども今はバイオリンを弾くことだってできます
ハツメさんお便りをください
私がそれを読んで聞かせてあげれば
どんなに喜ぶことでしょう



1915(大正4)年秋、膠着状態にあったドイツ軍との戦線は、
フランス軍が大攻勢に出ることが大きく動きました。
同時におびただしい数の日赤病院に運び込まれてきます。
この時、ハツメはひと月で4625人の傷病兵の看護にあたっています。
そんな時、本国日赤本社から

パリから撤退し帰朝せよ

との命令が下ります。
日赤のパリ派遣は5ヵ月の予定でした。
そして、もう既に10ヵ月が経過していたのです。
しかし、目の前に
自分たちの力を必要としている人たちが大勢いるのに、
帰国などは考えられない。
現場のチームは本国にそう訴えました。

救護班一同
戦争終結までとの覚悟を固めております


それにより、派遣期間は延長、
しかし、仏独の戦線はドイツ軍が押し返すことで、
また大きく変化、運ばれてくる大勢の負傷兵の中に、
アンリ・ジビエ砲兵伍長もいました。



彼は砲弾の破片を受け、
傷は心臓と大動脈に達していました。
助かる見込みは薄く、
大手術の前に日赤の医師は家族を呼べと命じます。
しかし、彼の家族は100kmも離れた町から来るため、
それまで保たせられるか予断を許しません。
「せめてひと目だけでも」と、
ハツメたちは彼の胸を押さえ続けました。
出血を少しでも抑えるために、
9時間ものあいだ。

ちょうど、ベルダンで激戦が展開されていたその時期です。
ベルダンはフランス北東部の街で、
第一次大戦中、1916年2月から16ヵ月もの間
悽惨な戦いが繰り広げられました。
ベルダンの戦いでは、両軍合わせて死傷者70万人、
うち死者はフランス軍16万、ドイツ軍10万。
そのあまりの凄まじさに、
イギリス人ジャーナリストはこの戦場を
「肉挽き器」と喩えています。
五体満足ではない遺体も数多くありました。

パリも安全ではなくなります。
ドイツ軍による空爆が開始されたのです。
燈火管制が布かれる中、
ハツメたちも爆弾の炸裂音を聞いていました。

遠き異郷のパリで
敵弾に倒れることかと思いました時
涙がハラハラと流れました


爆弾は民家も直撃し、病院の周囲でも死傷者が出ます。
あまりの負傷者の多さに、
日本から大量に持ち込んだはずの医薬品も枯渇、
過労で看護婦の中には倒れてしまう者も出てきました。
極限状態の病院で、ハツメが目を離した隙に、
受け持ちの患者が昏倒してしまいました。
これは心臓に問題があると、
医師からは一時も離れてはいけないと注意を受けました。

私は人間をひとり
殺していたかもしれない
そう思うと大きな動悸が
ドキドキといくつかいたしました
私も死にたくなり
何かあれば自殺しておわびしようと考えています


パリの日本赤十字病院は活動の限界を超えていたんです。

1916(大正5)年7月、日赤救護班パリ撤退。

この時のことを当時の医長が
NHKに語った録音が残されています。

私どもは早く引き揚げろということを
命令を受けていたんですけれども
向こうではもし帰れという命令があるなら
一部でもいいから残っておってくれと
言われていたんだけれども
とうとうそれを断って帰ることになった


人類未曾有の大戦争に、
ハツメたちは力尽きたのでした。

最後まで守り切れなかった傷病兵たち。
そして、助けてくれた病院のスタッフ。
ハツメはその一人一人の名前を手帳に書き記しています。

右太ももを負傷した方です
私たちの引き揚げのときも
体の自由がきかず
ともに泣いて別れることになりました



7月10日、病院を出たハツメたち一行を
パリの駅で待ち構えている人たちがいました。
おぼつかない足取りで近寄ってくるその人たちは、
日赤病院でハツメたちが看護した人たちでした。

「ありがとう。ありがとう」

口々にそう繰り返す彼らに、
ただ、手を握り返すことしか出来ません。
こうして、2年間のパリ日赤病院の活動は幕を閉じたのでした。




フランスから帰国したハツメは故郷・熊本に戻ります。
現在の熊本大学医学部附属病院で
看護と後進の育成に生涯を捧げ、
1973(昭和48)年、亡くなります。
享年、92。

この第一次世界大戦での経験は、
日本が海外での戦場に看護婦を
本格的に動員するきっかけとなりました。
第二次世界大戦終結までに、
3万2000人の看護婦が従軍、
そのうち、1000人以上が亡くなったとされます。

パリでハツメと苦楽を共にした加藤きんは



シベリア出兵で招集を受け、
チェコスロバキア兵などの救護にあたります。
日中戦争では、病院船の看護婦長として、
日中間を数十回にわたり往復、
傷病兵の看護に力を尽くしました。
戦後、長年の功績が認められ、
看護師としての最高の栄誉である
フローレンス・ナイチンゲール記章を受章、
しかし、パリ日赤病院での記憶を、家族に対してでさえ
彼女が語ることはありませんでした。

一方、現在のパリの南、ピティヴィエには
ジビエさん一家が書店を営んでいます。
あの時、砲弾で心臓と大動脈を損傷、
ハツメたちが9時間、
胸を押さえ続けた彼の子孫です。
その後、彼は大手術を乗り越え、
故郷で6人の子供と、21人の孫に恵まれたのでした。
息子のピエールさんのお話です。

日本の看護婦さんとお医者さんに
感謝の気持ちでいっぱいです
あの時の手術がなければ
父は間違いなく死んでいたでしょう
もしそうなら私たちはここに存在していないのです



私は飾り石のような華やかな人間となるより
裏石のように目立たずとも
人々を支える人間になることを望みます
そのことは日本を出発するときから
ずっと考えてきたとなのです


戦地パリの日々を送る中で、
看護婦竹田ハツメが誓った言葉です。





赤十字救護看護婦「竹田ハツメ」展 - 日本赤十字社 熊本県支部
http://www.kumamoto.jrc.or.jp/exhibition/ex04




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