ビーバップ!ハイヒール 「今こそ知っておきたい! 赤十字誕生物語」 その2
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上の記事では、日本赤十字社誕生などのお話をお書きしていますが、
前回のヒストリアのお話は
日赤の看護婦たちが第一次世界大戦下のパリに派遣された時のこと。
太陽光で明るい病室。
この日本赤十字社が開いたパリの病院を描いた油絵で、
中央左に立っているのが
日本赤十字社熊本支部看護婦所属、竹田ハツメ。
今回の番組は、彼女の手記に沿った内容となっていました。
1914(大正3)年11月3日、彼女はパリへの派遣を言い渡されました。
ヨーロッパの戦地へ赴く、
フランス語など解するはずもない彼女にとって、
それは衝撃的な通達だったことでしょう。
しかも、4ヶ月前に勃発した人類史上初めての世界大戦。
イギリス、フランス、ロシアの連合国陣営と、
ドイツ、オーストリア=ハンガリーの同盟国が
双方の全国力をかけての総力戦でした。
イギリスと同盟している日本は、
連合国側として参戦、
三カ国に医療チームを送り込むことになりました。
当時の日本赤十字社は、
軍の監督下にあったため、
ハツメらはパリへと派遣されたのでした。
突如、フランス行きとなったハツメは、
帰宅すると両親に報告、
母親は心配していましたが、
父親はたいへん喜んだようです。
彼女自身も
これまで経験したことのない驚きと
うれしさが交互に湧いて
心臓の血管が波立つのが分かりました
と書き記しています。
1881(明治14)年、熊本に生まれた彼女は、
看護婦養成所を卒業、地元の病院に就職し、
日露戦争の際に招集を受け、
国から勲章を贈られるほどの働きを見せています。
フランス派遣の抜擢も、
その功績を見込まれてのものだったようです。
このフランス派遣は、日赤にとって
初めての海外の軍の中での活動、
そのメンバーにはハツメと同じく、
日露戦争などで活動した外科医、看護婦など31人は、
当時、全国から選ばれた精鋭でした。
12月16日、一行はフランスへと出発。
その船中初日のことは、
まだ見ぬ大都市のパリ
そして大戦乱の裏側などが想像されて
希望と好奇心がともえになって脳裏を支配し
ついにその日は眠ることができませんでた
ハツメはこのように記しています。
到着までは約50日が見込まれ、
ハツメたちは到着後すぐに救護にあたれるように、
洋上での準備にとりかかりました。
特に力を入れたのは、フランス語の猛特訓。
英語が出来る看護婦はいましたが、
フランス語についてはほぼ皆無。
とにかく、体の部位など、
患者と最低限のコミュニケーションを取るための単語を
頭に叩き込んでいきます。
年が明けて2月5日、パリに到着。
凱旋門から100mほど離れた場所に
日赤病院が開かれました。
高級ホテルだったものを、日本政府が借り上げて
病院として使用することにしたものです。
大食堂は大病室に、
客室を小病室として活用しました。
病床数は150、医療器具のほとんどは日本から持ち込んだ最新式。
薬品も出来る限りの膨大な量が用意されています。
2月24日、ハツメたちの救護活動が始まります。
このパリの日赤病院は、
フランス軍の中で重傷の患者を治療する病院となります。
このようにフランス軍の他の病院よりも、
特に重く用いられることになったのは、
その10年前の日露戦争での活動が評価されたからで、
当時、フランス軍はまだそのような近代戦は未経験であり、
知識と技術の備えがなかったのです。
当時の日赤は、世界で最先端の外科病院となっていました。
しかし、実際の現場では
思わぬ壁が日赤救護班を苦しめます。
船中で必死に覚えたフランス語が、
地方訛りの強い兵士たちに全く通じず、
そんなこともあって、日本人は信用できないとして、
治療に当たろうにも、それに拒否する兵士も多かったようです。
言葉が通じないというのは
看護にとって最も不便なものです
特に重傷の患者が痛みに耐えつつ
何とか自分の意思を伝えようとするさまは
看護をする者として言いしれぬ気の毒さを覚えます
ハツメら2人の看護婦と写っているのは現地の傷病兵。
彼らが着ているのはハツメたちが病院着として贈った着物です。
前線から血まみれ、埃まみれで病院に送られてくる彼らに、
せめて清潔な衣服をと、
ハツメたちが縫い上げたたもの。
彼女たちは、その時、出来ることをしようとしていました。
そんな努力が伝わったのか、
現地スタッフの力を借りつつ、
患者とのコミュニケーションが少しずつとれるようになり、
やがて、日赤病院は新設で技術に優れていると、
フランスで評判になっていきます。
彼女たちの包帯の巻き方などは、
どんなに動いても緩まない、ほどけないとして、
他の病院から医師たちが視察に訪れたほどでした。
ある者は日本の病院に収容されることが決まったとき
初めとても失望したそうです
しかし私たちの対応に接し
とても喜んでくれるようになりました
それは当時彼女たちの看護を受けた
兵士たちからの手紙からもわかります。
日本の赤十字病院で
すばらしい看護をしていただき
ありがとうございます
私のすばらしい看護婦であるタケダさんへ
…続きます
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歴史秘話ヒストリア 「看護婦が見た世界大戦の真実」 その1
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