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歴史秘話ヒストリア 「新発見!龍馬の手紙 ~風雲児の筆が語る幕末の真実~」 -盟友・由利公正-

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今回の新発見のことで、
番組表のリードに書かれている
「世紀の発見!」とかいう言葉が誇張したものであること、
とてもよくわかりましたね。

この龍馬手紙の新発見の時には、
即日新聞、テレビのニュースなどで
たくさんのメディアで取り上げられていました。
これぐらいのインパクトがあれば
報道されるんですよね。
番組視聴率のためにも、
新発見の内容を秘密にしておくよりも、
公開しておいた方がよいと思いますし。
ただ、世間の注目を浴びない分野などでは、
テレビで初めて知る新発見はたくさんありますけれど。


坂本龍馬の“幻の手紙”を番組取材中に発見! 驚きの鑑定額にスタジオが騒然!!
http://news.walkerplus.com/article/45862/

この時の発見ですね。
「突撃!アッとホーム」のロケ取材で、
バイきんぐのお二人が家族との思い出など、
そのお家にとってのお宝を探すために
街頭で「お家にお宝ありませんか?」と
質問してまわっていて、
その時、「坂本龍馬の手紙」があると仰る女性と出会ったんですね。



小峠さんが大笑いしていますので、
それが本物だとは露程も思われなかったのでしょう。
私が現場にいたなら、同じように信じなかったと思います。



その後、番組でそれが公開鑑定され、
真筆であることが判明、価格は1500万円でした。
その女性のお話によりますと、
お父様が2~30年前に古美術商から
1000円で購入されたものだったそうです。


発見された坂本龍馬の「越行の記」には、
大政奉還がなされた後の新政府の形について、
財政計画、人材構想案などが書かれています。
本文の文字数739字で、後藤象二郎に宛てたもの。

知られざる"龍馬伝"世紀の英雄・坂本龍馬最大の謎と秘密の暗号「新政府綱領八策」
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10529667572.html

ここにも関わりがあるものですね。
そして、そこに見える

三八

の文字。この手紙の中に6度登場しています。
これは福井藩士・三岡八郎のこと。

坂本龍馬が生まれる6年前の1829年に
三岡八郎は生まれています。
学問嫌いで、武芸を好んだ少年時代であったようです。
それが槍の才能として開花し、
若くして免許皆伝だったとか。

しかし、黒船来航の25歳の頃の時代には、
経済学にのめり込んでいました。
それは福井藩政治顧問の横井小楠の現実的な経済理論に惹かれてのもの。

国が富むにはまず外国と交易し人々を豊かにする
そのために人々の生産性を高くするのだ


後に明治政府が行うことになる殖産興業についての考えでした。
三岡は海外との貿易を如何に藩財政に生かすことが出来るのかを考え、
やがて藩内きっての経済学通として知られるようになり、
32歳の時に、財政担当となり、
悪化した藩財政を再建しています。
彼はまず藩札を発行しました。
藩札は各藩独自の紙幣で、藩自体の信用により、
その価値は担保されます。
元々はただの紙切れに印刷しただけのものです。
それを資金に貿易で利益を獲得することに成功しました。

1863年、三岡八郎35歳。
この時、坂本龍馬と出会っています。その時29歳。
龍馬も横井小楠の経済による強い国作りを
実践しようとしていました。
彼は海軍力を背景に、海外貿易の発展を計画、
その実現のため、資金援助を求めて、
世界における日本の状況を理解し、
横井小楠の影響を強く受ける福井藩を訪ねたのでした。
この時、藩主松平春嶽は龍馬に5000両を用立てています。
これが勝海舟の神戸海軍塾の資金となる訳ですが、
三岡八郎などの功により、
財政が安定してきているとはいえ、
裕福とはいえない状態で、
これだけの大金を支出することには、
三岡八郎が関わっていたのかもしれません。

当時はまだ、「国」といえば、
福井藩だったり、土佐藩だったり、
あるいは越前国という認識なんですが、
三岡八郎と坂本龍馬は違っていました。
私たちが今考えている「国」の単位、
日本国として、その未来をどうすべきかを考えていたのです。

君がため捨つる命は惜しまねど
   心にかかる国の行く末


そんな頃、酒席で龍馬が三岡に贈った歌です。

龍馬も実用には何の役にも立たない学問を否定し、
世の中にとってそれがどういう意味があるのかを考え、
有用なものを実践し続ける主義。
似たもの同士の二人が意気投合したのも当然といえます。


1867年、御札降り、
全国の民衆の間でええじゃないか騒動が起きている頃、
薩摩藩と長州藩は武力による倒幕の動きを見せ、
日本は内乱の危機にありました。
一方の龍馬は、不戦による倒幕、
幕府から朝廷への政権返上、
すなわち、大政奉還を実現させようとしていました。
薩長の動きよりも早く、
それを実現せねばなりません。

政権の返上を幕府が受け入れなければ
我らは将軍徳川慶喜を天下国家のため討ち取るつもりです
その場合は後藤先生とあの世でお会いすることになりましょう


10月13日、後藤象二郎宛ての手紙の中で、
龍馬はその覚悟を見せつつ、
後藤に対して、命がけでも交渉を成功させてほしいと、
伝えてきています。
この時、龍馬暗殺まであと32日。

翌日、大政奉還。
260余年の徳川家による天下は終わりました。
土佐藩士や龍馬周辺は無事大願が成ったこと歓喜しますが、
当の坂本龍馬は違っていました。
朝廷に政権が移ったところで、
国家の形が不安定では諸外国に対する隙となり、
殖産興業どころではありません。
龍馬は大政奉還から14日間の間に、
新政府の人事案をまとめています。
10月24日、龍馬はまた福井の松平春嶽の元へ。
今回の新発見の手紙「越行の記」はこの時の旅のことを
後藤象二郎に報告しているものです。

10月28日、龍馬暗殺まで17日。
福井到着も、春嶽多忙につき面会はならず、
龍馬は土佐藩からの書状を言伝ました。
これまでの研究では、
この旅で龍馬は春嶽に面会したというのが定説でしたが、
この新発見により、
会うことが出来なかったことが判明したことになります。

一方、三岡八郎は謹慎中。
彼は新しい日本のために福井藩も行動すべきと訴えますが、
藩内の賛同を得られず、失脚していたのです。
そのため、誰かと面会できるものではありませんでしたが、
龍馬が福井藩に三岡との面会を懇願、
藩が断ってもしつこく願い続ける龍馬に
藩も折れ、2日後、非公式の形で面会することが出来ました。

三十日朝 三岡八郎及び松平源太郎来る

松平源太郎は正直のこと。
三岡が謹慎中の身であるための立会人であったようです。
あとは目付の出淵伝之丞が同席していたとのこと。
龍馬が彼との面談にこだわったのは、
旧交を温めることもそうですが、
それに加え、新政府の経済政策について、
三岡がどのように考えるか
意見を聞きたかったからでした。
三岡はまずかつての藩札発行の時のように、
新政府としての金札発行するべきだとし、
他にも龍馬のその期待通りに、
三岡は独創的な案を次々と提案、
これを聞いて龍馬は

金銀物産とふの事を論じ
候ニハ此三八を置かバ他ニ人なかるべし


と、新政府に彼が必要であると確信し、
それを新発見の後藤象二郎宛信書に書き記しています。

別れ際、龍馬は友情の証として、
自分の写真を三岡に贈っています。
しかし、数日後、彼は龍馬との面会について家老に報告に行った帰り、
川船から川にその写真を落としてしまいます。
彼にはそれが不吉に思え、
大いに気がかりだったそうです。

11月5日、龍馬は京に戻りました。
新発見の手紙はこの日以降に書かれたものと考えられます。

11月15日、近江屋にて坂本龍馬、
中岡慎太郎とともに暗殺。

その報せは、龍馬の身を案じていた三岡のいる越前にも届けられ、
京へと上り、密かに、彼は龍馬の供養をするのでした。
この頃、三岡八郎は由利公正と改名し、
明けて正月、三岡八郎は龍馬の構想を生かした五箇条の御誓文を起草、
それが新政府の基本方針となります。
維新後は明治政府の財政担当となり、
紙幣の発行など、新政府の経済基盤を築くことになります。

夜の海に浮かぶ思ひのあとさきに
   こころもつれての涙川なす


晩年、由利公正が坂本龍馬を偲んで詠んだ歌です。








以下、下記より引用の「越行の記」原文及び現代語訳です。

NHK「突撃!アッとホーム」
http://www.nhk.or.jp/athome/sp/onair/20140412c01.html

原文
越行の記
十月廿八日福井ニ達ス奏者役
伴圭三郎来ル御書を相渡ス
直柔が役名を問ふ、海援隊惣
官を以てことふ
  同夜
三十日朝大目付村田巳三郎来ル。
用向無之哉を問ふニ曰ク、近時云々
を言上仕り其うへ御論拝承仕度
およそ明白なる国論を海外迠も
不聞を恐るゝことニ御座候。扨此
度こそ私共も御国論拝承仕り度
心願在之候。村巳曰ク老主人出京
も来月二日ニ取定めたり、事
多端なれバ御目にかゝり不申。然ニ
前條御尋の如きハ拙者より
申上候。されバ老主人出京後彼
是手順もあるべけれども将軍
家政権を御帰しとなれバ将
軍職も共に御帰し不被成ては
とても御反正と申ても天下の人
心折合不申と国論こゝに
     同廿九日
在之候云々、此夜奏者伴
圭三郎来り御答書を受
取ル

■丗日
朔日朝、三岡八郎及松平
源太郎来ル 但シ三八に面会の事を昨夕
      村巳に頼置しニ三八儀は
先ン年押込メラレし後ハ他国人ニ面会
かたくさしとめられたり。故ニ政府の論儀ニより
君側中老役松平源をさしそへたり。
其故にや三八が来りし時、松平源を目
して、私しハ悪党故君側より番人が
参りました、といへバ
松平源も共に笑ふ 夫より近時京
師の勢前後不残談論ス
此談至り尽シタリ
深ク御案可被下  三八曰ク将軍家信
 反
ニ返正すれバ何ぞ早く形を以て
天下に示さゝる近年来幕
府失策のミ其末言葉を以
する事ハ天下の人皆不信さ
るなり云々是より金銭国用
の事を論ズ曽而春嶽侯
惣裁職たりし時三八自ラ幕
府勘定局の帳面をしらべしに
幕の金の内つらハ唯銀座
局斗りなりとて気の毒がり居
候御聞置可被成候惣じて金
銀物産とふの事を論じ
候ニハ此三八を置かバ他ニ人な
かるべし
十一月五日京師ニ帰ル福岡
参政に越老侯の御答書を渡ス
右大よふ申上候謹言
直柔
後藤先生

近日中根雪江は越老侯
の御供村田巳三郎ハ国本のこる家
老ハ可なりのもの出るとのこと再拝再拝。



現代語訳
越前行きの記
十月二十八日福井に到着しました。奏者役(取り次ぎ役)の伴圭三郎が来たので(後藤から)預かった書簡(八月二十五日付松平春嶽宛て山内容堂書簡)を渡しました。直柔(私)の役名を問うので、海援隊惣官と答えました。
その日の夜、大目付村田巳三郎が来て、用向きを問うので、近頃の時勢などを申し上げその上で越前藩(春嶽侯)のご意見を伺い、およそ明白な国論を海外までも聞かせなければならないと考えていることを伝えました。さて、この度こそ私たちも御国論を伺うことを心から願っています。村巳(村田)が言うには、老主人(春嶽)の出京は来月(十一月)二日に決まったが、多忙なのでお目にかかれませんでした。しかし、前条お尋ねのこと(国論を伺いたい旨)は、拙者(村田)より申し上げます。そうなれば、老主人出京後、かれこれ手順もあるでしょうが、将軍家が政権をお返ししたとなれば、将軍の職も共にお返ししなければ、とてもご反省していると申しても天下の人心の折り合いが付きません、と福井藩では考えています、云々。翌二十九日奏者役伴圭三郎が来て、返書を受け取りました。

三十日(朔日を訂正)朝、三岡八郎及び松平源太郎が来ました。但し、三八(三岡)に面会したい事は昨夕村巳に頼み置いたことです。三八は先年、罰を受けて幽閉されており、他国人に面会は堅く止められていたので、藩の政府の議論により、藩主側の中老が差し添えられました。それゆえに、三八が来た時、松平源を見て、「私は悪党ゆえ君側より番人が参りました」と言えば
松平源も共に笑っていました。それより近頃の京都情勢を前後残らず談論し、話し尽くしました。
深くお考えください。三八が言うには、将軍家が真に反省すれば、
どうして早く形を以て天下に示さないのだろうか。近年来幕府は失策ばかりで、その上言葉で言うだけでは、天下の人が皆信じないだろう云々。(行動で示せということ)これより国で用いる金銭の事を論じました。かつて春嶽侯が総裁職(政事総裁職=文久三年=一八六三年)だった時、三八自ら幕府勘定局の帳面を調べたところ、幕府の金の内情は、ただ銀座局ばかり(本来、金座・銅座・銭座などがあるが機能していないという意味か)で、気の毒がっていました。お聞き置きください。総じて金銀物産等の事を論ずるには、この三八を置いて他に人はいません。

十一月五日京都に帰り福岡参政(福岡孝弟)に春嶽侯の御返書を渡しました。
大よそ右のようなことです。謹言
直柔
後藤先生

近日、中根雪江(越前藩重臣)は、春嶽侯のお供。村田巳三郎は越前に残る。他の家老はかなりの者が京都へ出るとのことです。
再拝再拝






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