控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して、私の手の届くところに置いて欲しい。私がこの手で殺します。
被害者の夫で、父親の本村洋さんは2000年3月の無期懲役の一審判決後、
記者会見でこのように発言しました。
私が殺す
と公の場で口にしている人を初めて見ました。
この時の本村さんは、自制心を失わないように、
努めて冷静にされていたように思います。
内にはきっと、その強い言葉通り福田被告(当時)に対する怒り、
裁判所への怒りがあったことだと思います。
それが広い視野を持たれるようになり、
それは犯罪被害者と家族、遺族の権利を獲得していくことに繋がり、
犯罪被害者等基本法成立の原動力ともなりました。
ただ、妻と子を殺した福田被告が憎いだけではなく、
また、現実に本村さんが望んだ死刑の確定が得られた今も、
この判決に勝者はいない
と仰り、また人一人の命を奪う事への深い苦悩があったことも伺わせました。
それがたとえ、彼が願ってやまない、
愛する妻と子の命を奪った憎い犯人の死だとしても。
その時々で、本村さんの言葉には胸を打たれました。
それは彼の戦いが恨みからではなく、
もっと社会的意義のある運動を通され、
私闘から公共のための戦いへと変わっていたからだと思います。
ぜひ、一度読んでみて下さい。
本村さんが死刑制度について自ら学ばれ、
迷われていたのがよくわかります。
対する弁護人たちはどうだったでしょうか?
死刑廃止論者である弁護団は、そのためには手段を選びませんでした。
2006年3月には上告審での審理を安田好弘、足立修一両弁護士は欠席、
要するに裁判を引き延ばしたかった彼らは、
つまらない口実を設けて欠席したに過ぎません。
この時の最高裁裁判長はこの年の5月に退任ということで、
審理を先延ばしにしたかったと。
この裁判長が彼らに出頭在廷命令なる聞き慣れぬ命令を出し、
翌月の弁護側の陳述の中で、二人は今までになかった主張を始めましたが、
結局、第二審での無期懲役を甚だしく不当として破棄、
高裁へ差し戻しとなりました。
この差し戻し控訴審でも、安田弁護士らはドラえもんだの、
復活の儀式だなど、被害者の尊厳を踏みにじるような主張を展開、
殺意はなかったため殺人罪ではなく、
傷害致死であるとしてきました。
これは社会正義を実現することを使命とする弁護士の行いなのでしょうか?
弁護士法第1条には
弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする
とあります。
法廷において検察官と弁護人、そして裁判官は、
その手段と視点こそ違えど、
真実へ辿り着くための正義を為す役割を担わされているのではないでしょうか?
被告人の命を縮めることになった一因は、
この死刑反対派弁護士たちにもあるのではないか、
そんなふうに思います。
社会正義を為すのが法律家であるならば、
この被告人に対して真摯な反省を促すべきで、
その場しのぎの姑息な主張により、世論の反感を買い、
それを無視できない裁判所は死刑を確定させてしまいました。
そういう可能性はないでしょうか?
私の個人的な印象に過ぎませんが、
もう一つ個人的な印象を述べますと、
現在の大月(旧姓・福田)孝行死刑囚は、
本当に反省しているのではないかと思えるんです。
それで彼が死を免れるべきだとは思いませんけれど、
もしも、現在彼が口にしているような言葉を、
2006年の最高裁で述べていたとすれば、
判決はそのまま無期懲役だったのではないでしょうか?
差し戻し控訴審にしても、
仮にもしも被告人がドラえもんだのを言い出したとしても、
弁護人として、真正面から諭すのが
死刑を免れる唯一の道だったのではないでしょうか?
2000年の控訴審で、検察官が持ち出した「例の手紙」が作り出した心証を、
挽回したいのであれば、その正攻法しかないように思います。
上で挙げた「なぜ君は絶望と闘えたのか」の中からも、
彼の心が伺えたんですから。
死刑が現実味を増し、彼に心境の変化を与えたならば、
それよりも早く、誰かが彼の心を変えることが出来たとすれば、
弁護人だったのではないかと思います。
上告棄却による死刑確定を受けて、弁護団は
事実を真正面から検討せずに判断を誤り、極めて不当。誤った判決を正すために今後も 最善を尽くす
と声明を出しました。
本村さんの言葉とは違い、
まったく私たちの胸に届くものはありません。
真正面からの審理をさせようとしなかったのは弁護団だからです。
裁判員裁判が始まりました。
裁判員裁判ではなくとも、
裁判所の判断は、世論の影響を受けずにはいられなくなっています。
このようなその場しのぎはますます反感を買う事となるでしょう。
この死刑確定が判例として、新しい基準になる可能性が指摘されています。
死刑判決のハードルを下げてしまったとすれば、
その責任は弁護団にあるのかもしれません。
彼ら弁護人たちには、
それまでの弁護方針そのものが被告人の命を縮めた可能性について、
よくよく考えてもらいたいです。