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蛸薬師堂と蛸薬師町は別の場所 ~新京極通の謎~

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京都の通りの名前 丸竹夷二押御池 姉三六角蛸錦~この歌さえ憶えていけば迷わない?~
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11989686808.html

蛸薬師堂と蛸薬師町のお話。

蛸薬師信仰は全国にありますが、
タコには吸盤があり、イボ取りや腫れ物、癌封じ、
墨の中でも目が見えるとされたことから眼病にも霊験があるとされました。
しかし、京都の蛸薬師には独自の由来があります。



昔、薬師如来を祀る京の永福寺に善光という若い僧がいました。
彼の母親が重い病に罹り、
その母は死ぬ前に一度だけタコを食べたいと言います。
善光は仏に仕える身。
殺生は戒律で禁じられています。
しかし、善光は母の願いをどうしても叶えたくて、
この一度だけと決め、タコを買い求めました。
この時、善光は僧の姿では目立つだろうと、
女装していたともいいます。
善光はタコを桶に入れ布をかぶせます。
ただ、女装束の善光は逆に目立ってしまい、
多くの町の人に見咎められてしまいました。
僧侶が女の姿で生臭物をと罵られながら、
永福寺に辿り着いたものの、
今度は和尚が善光からの独特の匂いに気付きます。
善光から桶を取り上げて和尚が布を払ってみると、
そこからまばゆい光が放たれ、
しかも中にタコの姿はなく、桶の中にあるのはまばゆい経典が八本のみ。
何事が起きたのかはわからない善光でしたが、
これは薬師如来様の御力に違いないと、
母親のところへ光り輝く経典を持っていきます。
すると、母親の病は癒え、
経典はタコの姿に戻り、近くの池へと飛び込んで消えてしまいました。

こういう伝承があります。
余談ですが、タコが消えた池が御池だともいわれ、
その名を御池通に残しています。
この話は蛸薬師町でのものなのでしょう。



蛸薬師堂(A)と蛸薬師町(B)、
地図で測定しますと、約1.2km、
京都市中心部に斜めの道はありませんので、
歩くと約1.6km、15~20分ぐらいかかるでしょうか。



これが蛸薬師堂永福寺です。



蛸薬師堂は西を向いていて、南北の道・新京極通、
新京極商店街に面しています。
京都の町は平安京を基礎としていますが、
その後に大きな変化が2度ありました。
最初の一つが応仁の乱以後の戦続きで荒廃した京を復興させ、
城塞都市として改造した豊臣秀吉による町作り。
この時、元々は蛸薬師町のあたりにあった蛸薬師堂は、
現在の場所に移されました。
秀吉は洛中を御土居で囲い、
都の東端は大きな寺を集中させ、
寺町を形成して防壁としました。
蛸薬師町は元々、蛸薬師堂の参道で、
肝腎の蛸薬師堂が移されても、その名にその歴史を留めているのでした。




この動画では新京極通の多くの社寺を紹介しています。
蛸薬師堂永福寺は1分40~50秒あたり。
ここが突き当たりになる東西の通り、
蛸薬師通は蛸薬師堂が移されてからの参道なのでしょう。
それにしても、この新京極通、新京極商店街は大きな商店街です。
蛸薬師堂や他の寺の本堂の目の前を横切り、
それらの寺の参道とで三叉路を作る商店街があるのはなぜでしょうか?



これは1780年の「都名所図会」の中にある見開き。
蛸薬師堂のあたりが描かれています。
この絵には新京極は存在していません。
ちなみに、画面手前にあるのが中川と呼ばれていた小川で、
この川を渡ると寺町となります。
寺町通は川の脇の道で、現在も新京極通の隣にあります。
この絵では新京極通に面する多くの寺社への参道が描かれていますが、
蛸薬師通の他に、小さな脇道として
ほとんどは現存しています。

元々、蛸薬師堂などの境内はもっと広いものでした。
特に現在の本堂よりも西に広く、
現在の新京極通は蛸薬師堂などの境内だったんです。
新京極通が出来たのは明治時代。
境内を貫くように通りが作られました。
なぜ、本堂の直前に道路を作ろうとしたのでしょうか?
それは明治になって京都が失ったものと関係があります。
天皇です。
千年間、京は都でした。
政治の中央が鎌倉や江戸にあっても、
京が都であり続けたのは帝の存在がそこにあったから。
明治天皇が東京へと行幸、
ただの御幸だと思っていた京の人たちが
それが奠都で事実上の遷都だと気付いた時、
京の町からは活気が失われました。
蛤御門の変からの戦火の影響もまだ残り、
そのために、京の町では復興事業、振興事業として、
多くの公共事業が行われ、新京極通が通されました。
時代はもっと後になりますが、
琵琶湖疏水や平安神宮創建もその一つといえるかもしれません。
従来、寺の境内には縁日の屋台のような店や
見世物小屋がたくさんありました。
その賑わいを利用して、それらを縦断できる道を通し、
この町に活気を呼び起こそうとしたんですね。



「都名所図会」に新京極通を書き加えると、
こんなイメージになるでしょうか。


以上、先月、立て続けに蛸薬師堂と蛸薬師町の話が
「ちちんぷいぷい」「ブラタモリ」で紹介されていましたので、
今回、余計な話を書き加えつつ、まとめて記事にしてみました。
ただ、まだ謎も残ります。
蛸薬師は池の端にあったことから、
澤薬師(たくやくし)と呼ばれそこからの転だとか、
蛸薬師堂永福寺は妙心寺を境内に抱えていて、
永福寺は元々圓福寺という名前で、
三河国の寺と号を交換したとか。
このあたりは資料がないのでなんともわからないままです。
調べてみますと、愛知県内だけでも
円福寺というお寺は4件もありました…
もしも、このあたりの事情についてご存じでいたら、
お教えくださいませ。








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