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歴史秘話ヒストリア 「ザビエル戦国を行く」 ~YOUは何しに戦国へ?~ その2

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http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12012997056.html

こちらからの続きです。

天文18(1549)年8月15日、
フランシスコ・ザビエル、ヤジロウらは薩摩桜島近くに上陸。
薩摩の守護大名・島津貴久から布教の許しを得ます。
九州で布教を始めるザビエルは、
天地創造の主、"神"、「Deus/Jehova/Yahweh」について
どう話すか考え、

大日を拝みなさい

と民衆に説きました。
大日とは大日如来のこと。
大日と呼ぶことについてはヤジロウの勧めもあったようですが、
そのために当初、九州の寺院は異国の仏教徒かと思い、
歓迎してもいました。
聖母マリアを観音菩薩、パライソを極楽浄土と、
仏教が根付いている日本人にも馴染み深いものに置き換えることで、
キリスト教に親しみを持ってもらおうとしたようです。
しかし、ザビエル自身、それが大きな誤りであることに気づき、
大日についてはその使用をやめ、

大日ではなくデウスを拝みなさい

と説く事にしたところ、
九州の僧侶は彼らを遠ざけたようです。

この国の人々はモノの理を知りたがる

当時の日本人についてザビエルは手紙にこう記しています。
「地球は丸い」と説明したところ、
なぜ、丸いのか、世界には行き止まりがないのかなど、
現地人からは質問が続き、そのそれぞれに答えても、
その答えに対する質問を繰り返しました。

これほど、知識欲のある人を私は見た事がない

ザビエルはそう感じていました。


順調に信徒を増やしつつ布教を続けるザビエルたちでしたが、
九州上陸から1年、島津家はキリスト教の布教を禁止してしまいます。
これには、信徒を急速に増やし続けるザビエルたちに対する
当時の寺社の危機感が現れているのでしょう。
大名がそう言うのであれば、
その上の立場の人に許可があればよいのではないか、
そのためにザビエルは京へと上ることを決意します。
時の帝に布教を認めてもらおうというのです。

この頃は戦国、群雄割拠の時代、
危険な旅でしたが、戦乱に明け暮れているこの国にこそ、
自分の教えが必要だと考え、
心配するヤジロウを九州に残し、
ザビエルは東へと旅立ちました。

まずは船で薩摩から平戸へ。
ここからほぼ徒歩で托鉢をしつつ京を目指します。
600kmの行程、数ヶ月かかる道程です。
旅をするのはザビエルの他、
後輩修道士のフェルナンデスと
薩摩で最初に洗礼を受けたベルナルド。
盗賊に襲われ、見慣れぬ姿の一行は子供たちからは石を投げられ、
着の身着のままの薄着では、
冬の寒さ、そのための足の腫れも堪えたようです。
そんな彼らにも救いがありました。
貧しい村で空腹と疲労で立ち往生していると、
自分たちの食べ物を分けてくれました。

この国の人々は皆貧しい暮らしをしています
しかし、この国の人たちはその貧しさを恥だとは思っていない
皆、誇りを大切に生きているのです


ザビエルはそう記しています。
武士の情けもありました。
岩国では船に乗せてくれることに。
また、船内では商人から堺の知人を紹介されました。
その堺の知人というのが堺指折りの豪商・日比谷了慶。

この国の人々はとても親切にしてくれます
これほどで善良な人たちは他にいないのではないでしょうか


薩摩を出て4ヵ月後、とうとう一行は京に到着します。
しかし、彼らが見たのは応仁の乱以後、
荒れ果てた都の姿でした。
多くの家屋や寺社が焼け落ちたまま、
治安も悪化し、無政府状態。
むしろ、有力大名の領内のほうが安全だったぐらいです。
ザビエルが布教の頼みの綱と考えていた天皇にも、
政治力は失われており、
また、その面会も叶いませんでした。

これでは京にいる意味がない。
そう考えたザビエルは九州へと戻ります。
九州では豊後の大名・大友義鎮(宗麟)に歓待を受けました。
義鎮は外国の文化、キリスト教への興味と理解があり、
領内での布教の許しと屋敷が与えられました。
義鎮の庇護の元、ザビエルは信徒を百人にまで増やします。
ここを拠点にすれば、さらなる布教が可能になるに違いない。
九州や長州で信徒を600人にまでした頃、
そう考えたザビエルは天文20(1511)11月、
義鎮に一旦日本を離れることを告げ、
仲間を連れて、再びここに戻ってくることを約束しました。


天文21年(1552)12月3日、ザビエルは旅の途中、
現在の広東省・上川島にて死去。享年46。
日本からインド・ゴアに戻ったザビエルは
日本での布教には中国の布教も欠かせないと考え、
中国へと入ろうとしますが、それが上手くいかず、
病を得てのことでした。

私は日本人への感謝の気持ちを書き尽くすことが出来ません

日本を離れた後、ザビエルはこう書き残しています。


大友義鎮がキリスト教徒となったのはザビエルの死後。
5年前、日本初のキリシタン墓地が発掘されました。
それはザビエルが日本で最後に過ごした地、大分県でのこと。
54基の墓が整然と並んでいます。
豊後は、ザビエル以後、100万人の信徒が暮らす地となりました。




この動画前半は鹿児島のザビエル公園。
3人の像は中央がフランシスコ・ザビエル、
左がヤジロウ、右がベルナルドです。
ザビエルに九州での後事を託されていたヤジロウは
その後、キリスト教を排斥する島津家から迫害を受け、
東シナ海で海賊船に乗り込み、
現在の日置市にあるのが彼の墓だと伝わっています。
ベルナルドは日本を離れるザビエルに帯同、
3年の歳月をかけて辿り着いたのはローマでした。
ここで教皇パウロ4世と面会、
日本人で初めてローマ教皇との謁見を果たしています。

日本ではザビエルの死後、約70年後に禁教令が発布、
ここに日本でのキリスト教は歴史の中に埋もれてしまいます。
それから300年、大正になって大阪府茨木市の民家から
1枚の絵が発見されました。



それが「聖フランシスコ・ザビエル像」。
隠れ切支丹の一族が代々密かに受け継いできたものです。




コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~ 「フランシスコ・ザビエル」
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11616798118.html




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