今回は歴史に関わる要素がたくさん出てきましたね。
藤原忠実の子の忠通と頼長、
そして宋銭、密貿易。
今後、どれも重要になりそうですが、
ここでは密貿易について考えてみたいと思います。
1133年、平忠盛は鳥羽院の神崎荘を任されます。
神崎荘は肥前国にある荘園で、
これには忠盛自らが鳥羽院に願い出た結果だという説があり、
その目的が宋との密貿易であったと。
密貿易という言葉に人聞きの悪さがあるならば、
私貿易と言い換えてもいいかもしれません。
日宋貿易は両国公式の貿易でしたけれど、
これは菅原道真が停止を建言して以来の日中間の公式交流となりました。
そもそも、894年に道真は大使として遣唐使として派遣されましたが、
その20年前あたりから国情が不安定で、
そのため、遣唐使は廃止されることとなります。
907年には唐が滅び、この後、大陸に統一国家は出現せず、
しばらく小国が乱立する状態が続きます。
そして宋の国(北宋)が建てられ、
ここで再び、日中間の公式交流が再開されることとなります。
では、その間、日中間で何もなかったかといえば、
そうではなくて、民間レベルでは貿易が行われていたんです。
商人たちによる私貿易です。
北宋政権は周辺国との貿易に力を入れようと、
平安王朝にも働きかけますが、
当時の日本は消極的だったようで、
ただし、私貿易のほうは行われていました。
この私貿易において、宋の商人が来航していたのが博多や、
越前国敦賀だったりします。
平忠盛は越前守であり、
そして、瀬戸内海の航路を掌握していたことから、
宋との貿易を手中にしようとしていたのかもしれません。
当時の公の貿易の形といえば、
大宰府(太宰府)や京の役人が宋や高麗の商人から品物を受け取り、
その品物を役人たちが京まで運び、
京ではその中から朝廷が必要なものを選び、
不要なものが市場へ出るというものでした。
朝廷による買い取り価格は極めて低いものではあったんですが、
忠盛の時代になりますと、朝廷の財政も逼迫していました。
朝廷に支払い能力がないということで、
大宰府が立て替えるということになるんですが、
この大宰府のほうもだんだんと台所が苦しくなっていきます。
宋や高麗の商人たちは、ずっと待っていました。
品物を役人に納めてから、お金が支払われるまで。
何ヶ月も待たされるだけでなく、
何年も待たされることもありました。
そもそも、宋の船から品物を買い付けたのも宋の商人ですから、
その間の生活費にも困るようになります。
元々、朝廷に収めた品々の買い取り価格は
外国商人たちにとって納得のいくものではなく、
もしも、一般市場の需要を反映した取り引きが出来たなら、
そんなことも考えていたでしょう。
平忠盛が鳥羽上皇の院宣(劇中のように偽造説が有力)を示し、
大宰府の役人を追い返し、
平氏が貿易を取り仕切ろうとします。
これは宋の商人にとっても有益で、
朝廷が妨げとなっていた流通を忠盛が健全に近い形に改めた、
そんなふうにも考える事が出来るからです。
もちろん、目配りの出来る忠盛は、
朝廷の反発も織り込み済みです。
鳥羽院にはたくさんの舶来ものを送り届けていたことでしょう。
彼は唐物のコレクターであり、
もともと、経済面でも院を支援してきていて、
たとえ、周りが忠盛糾弾すべしと声を上げていても、
院にとっては覚え目出度き忠盛を排斥することなどあり得なかったのでしょう。
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