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こちらからの続きですが、
話を勝川派時代の北斎に戻してみます。
勝川派の時代、勝川春朗と号していた彼の作品はこういうものでした。
上手いですよね。
ただ、ヒットはしなかったようです。
だからなのか、様々な流派の絵を学び、
それを習得していく事となります。
しかし、他流派に学ぶ北斎は、
勝川派門下から見ればはみ出しもので、
ある時、彼が描いた看板を
勝川派の先輩に破壊されてしまう事件が起こりました。
北斎は悔しくてたまらず、
俺は日本一の画工になる
と言ったそうです。
画工、絵師の事ですね。
ただ、現代の画家とは違うという点については、
またお書きします。
日本一の画工になるという思いを胸に、
絵を描き続けてきた北斎も70代になっていました。
世の中がそんな彼を知る事になるのが
冨嶽三十六景
でした。
その中の一枚に
この神奈川沖浪裏がありました。
ほとんど抽象画の世界ですが、
実は極めて写実的な絵だともされています。
現代の技術で、ハイスピードカメラを用い、
波頭を高速度撮影すると、これに似た映像が撮られるとか。
また、カオスやフラクタルで流体を捉える非線形力学の考えでも、
この絵は現実をよく描いているとされています。
冨嶽三十六景が作られた背景には、
当時の富士山ブームがありました。
庶民は神秘なる山に登りたい、
登れないまでも見てみたいと考えていました。
行けない人のために、
このような富士塚が江戸と近隣の町にたくさん作られました。
これは東京都中央区湊にある鐵砲洲稲荷神社の富士塚。
富士山の代わりですね。
このブームを受けての版元からの依頼に、
彼は自分なら、あらゆる姿の富士山を描き分けられる、
そんなふうな自信があったのでしょうか。
私もこのブログを始めた頃はヘッダー画像を
この「凱風快晴」にしていました。
通称「赤富士」ですね。
そして一時期は
「山下白雨」。
冨嶽三十六景といえば、これらの絵の他に、
などなど、大胆で奇抜な構図の絵ばかり。
技術的にも西洋画の遠近法、琳派の抽象描写など、
彼が学んできた技術が盛り込まれています。
このシリーズは大ヒットとなり、
それまで浮世絵といえば、役者絵と美人画が大基軸でしたが、
名所画と呼ばれる風景画が商業的にも一大ジャンルとなりました。
この名所画という分野の第一人者となった北斎は他にも、
「諸国瀧廻り」「諸国名橋奇覧」なども描いています。
しかし、この時代の風景画として忘れてはいけないのが、
歌川広重です。
現在、このブログのヘッダー画像は
広重の「東海道五十三次」から「坂之下・筆捨嶺」にしてあります。
こちらは「蒲原宿」。
上手下手でいえば、北斎のほうがかなり達者であるように思います。
しかし、絵の中の人物については
広重のほうに捨てがたいものを感じます。
北斎の絵でも広重の絵でも、それぞれ人物が生き生きとしているんですが、
広重のそれにはどこかもの悲しさを感じてしまいます。
この「東海道五十三次」が大ヒットしたのは、
そのあたりも関係しているでしょうか?
風景画における二大巨頭である北斎と広重、
この二人は一度だけ対面しているという話が紹介されていました。
老いた葛飾北斎の部屋に若い絵師がやってきて、
手土産を差し出しています。
北斎は言葉にもせず、目でそれを断ると、
若い絵師は一枚の絵を取り出しました。
先生に私の絵を見ていただきたく
若い絵師、歌川広重は北斎の絵に憧れ、
彼の評価を聞きたかったのです。
絵を一瞥した老北斎、
知らねえや。てめえの絵はてめえでわからにゃ駄目だろ
と相手にしなかったそうです。
奇人で知られる北斎でした。
絵の事以外には頓着せず、ボロの着物を着て、
右手に杖代わりの六尺天秤棒、右手に饅頭を持ち、
挨拶されても返事もしません。
引越ばかりしていて、その数93回、
名前も度々変えていて、改号30回。
葛飾北斎はその中の一つに過ぎません。
部屋は常に散らかっていて、
この部屋でずっと絵を描いていました。
目と手が疲れて描けなくなると、何かを食べて眠ります。
人付き合いなんかに興味のない北斎先生。
汚い部屋と横柄な態度にあきれ果てた広重はまだ30代。
売れない絵師で、北斎の名所画に憧れていたのですが、
この時に、北斎に似た絵は絶対に描かないと誓ったそうです。
そして出来上がる「東海道五十三次」。
これが受けに受けて、「冨嶽三十六景」をも上回る売れ行きでした。
北斎も黙っていません。
富岳百景
を刊行します。
これは錦絵ではなくスケッチ集と呼ぶべきもので、
102点の富士が描かれています。
その中の一枚、
この「海上の不二」の波頭をご覧下さい。
砕ける波と千鳥の描写、そしてそれらが被さるのは富士山です。
この「富岳百景」の後書きには
己 六才より物の形状を写の癖ありて 半百の此より数々画図を顕すといえども 七十年前画く所は実に取るに足るものなし
七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益々進み 九十才にして猶其奥意を極め 一百歳にして正に神妙ならんか 百有十歳にしては一点一格にして生るがごとくならん
願わくは長寿の君子 予言の妄ならざるを見たまふべし
と、彼の絵に対する思いが記されています。
――――――私は6歳より物の形状を写し取る癖があり、50歳の頃から数々の図画を表した。とは言え、70歳までに描いたものは本当に取るに足らぬものばかりである。73歳になってさまざまな生き物や草木の生まれと造りをいくらかは知ることができた。ゆえに、86歳になればますます腕は上達し、90歳ともなると奥義を極め、100歳に至っては正に神妙の域に達するであろうか。100歳を超えて描く一点は一つの命を得たかのように生きたものとなろう。長寿の神には、このような私の言葉が世迷い言などではないことをご覧いただきたく願いたいものだ。――――――
この頃から彼は画狂老人、卍と号するようになります。
…明晩には書き終えられると思います…
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