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やっぱり信康事件の原因はクーデター「片岡愛之助の解明!歴史捜査」(2)

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こちらからの続きです。

https://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12332101823.html

岡崎の松平家忠は家康からの「在郷無用」の通達を受けても
岡崎に留まり、再度「在郷無用」の通達を受けています。
さらに主の正室が直接家臣に手紙を送るなど
異例中の異例。ただ事ではありません。
築山殿はほかの家臣にも手紙を送っていたものとみられ
これらのことから、岡崎城では
武田家と接触しようという家臣が少なくなかったことが想像できます。

家康とて、なんとか事態を収拾しようと努力はしていました。
「在郷無用」の通達もその一つですが、
それでも浜松と岡崎の溝が埋まらなかったとみられ、
徳川家康自身が岡崎へ
信康と徳姫の仲の修復に出向いています。
正確には「家忠日記」にあるのは、「仲直し」という言葉で、
その上にあったはずの人名は失われています。
ただ、研究者たちはそこに徳姫の名があったはずと考えているようです。

しかし、この方策も上手くいかなかったようで、
結局、信康を廃嫡、大浜城に移され、
家忠を含む家臣たちに「信康との内通」を行わないという起請文を提出させ
築山殿は家康のいる浜松へ向かう途中、
家康の上意により斬殺されています。
そして、信康はさらに堀江城、続いて二俣城に移され、
上意により切腹させられています。

信康は戦場では父に劣らぬ有能な武将だとされていますが、
性格は粗暴で、盆踊りで舞が下手だと領民を射殺したり、
政治は家臣任せで鷹狩りに明け暮れていたりなどと伝わっています。

築山殿も愛人の唐人医師がいたなど、
悪女として伝えられています。
ただ、もしも彼女が家康を憎んでいたとしても
桶狭間後に家康が自分たちの命を無視して織田と同盟し
両親が自害させられているのですから
当然といえば当然です。
そもそも、彼女の悪女というイメージは
徳川にとって都合の良いものです。

信康にしても、徳川家を継ぐに不適格だったということにしておけば
秀忠以降の血筋の正統性を主張できます。
信康が切腹した後、追い腹を切った家臣がいたともいわれます。
少なくとも、彼を慕う家臣がいたことは事実のようです。
不遇の異母弟・結城秀康を父に会わせたのも信康の尽力によるものでした。

西三河衆が武田と結びたがっていたという状況があり、
信康は信長の娘を正室とし、
上手くやっていかなくてはならないのに
それが上手くいかない。
同盟ではあるものの、
織田の下に入っている徳川の嫡男としては
焦りもあったかと思います。
それを一気に解決する手段が、
家臣たちが考えていた武田との同盟だったのかもしれません。

家康は信康と築山殿の菩提を弔うため
それぞれ寺を建立しています。

石川数正は信康の後見人でした。
「片岡愛之助の解明!歴史捜査」では、
家忠を数正の家臣としていました。
つまり、家忠は家康にとって陪臣となるわけですが、
その点、確認が取れませんでした。
数正はこの後、徳川家を出奔、
羽柴秀吉の元へと走ります。
今回、その動機にはこの信康事件が関わっていたのかなと思いました。





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