先日、大河ドラマ「おんな城主・直虎」に合わせて
このようなものをお書きしましたが
信康事件の真相は父・家康に対する謀反が原因か 「おんな城主・直虎」
https://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12328351750.html
今週のドラマはその後日談から高天神城攻城戦のお話でした。
ちょうど、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」でも
信康事件が扱われていました。(アンコール?)
ここで「家忠日記」に当時の状況が書かれていることを知り、
新史料でも発見されない限り、
信康事件の真相は
築山殿と信康がクーデターに関わり、
家康が信康に切腹を命じ
正室・築山殿の殺害を命じたという解釈で間違いないかと思うようになりました。
この事件の根底にあるのは
徳川家康と正室・築山殿の不仲、
そして、嫡男・信康と正室・徳姫の不仲です。
今川義元の妹、あるいは伯母が母だとされる瀬名ですが、
彼女が築山殿と呼ばれるのも、
その夫との不仲が原因です。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、松平元康は岡崎に帰還。
今川配下から離れ独立、織田信長と同盟し、家康と名乗ります。
ただし、築山殿と信康ら子どもたちは人質として駿府に残されたまま。
家康の離反に今川家は激怒し、築山殿の父母は自害しています。
人質交換で母子は岡崎城へ帰還しますが、
築山殿の住まいは家康の館から1kmも離れ、
その場所が「築山」であることから、こう呼ばれているわけですが、
家康時代までの分家、十八松平の一つで
深溝(ふこうず/ふこうぞ)松平家の松平家忠が残した
「家忠日記」では彼女を「御母さま」としており、
信康らの母ではあるものの、
家康の正室だという認識は薄かったの可能性もあります。
家康にとっても、今川配下だった頃は価値のある婚姻関係でも
織田と同盟している時点では無意味か、
あるいは織田から余計な詮索を受ける材料だったかもしれません。
信康は9歳の時に織田信長の娘で、同じ年の徳姫と結婚。
二人の娘を儲けますが世継ぎたる男子は生まれず
嫁姑関係がこじれていきます。
この頃、徳姫が書いたとされるのが
信康と築山殿が武田家との密通していることや
信康の悪行などを記した織田信長への手紙です。
通説では、これに怒った信長が家康に
信康と築山殿の処断を求めていることになります。
そして、築山殿殺害、信康自害に至るわけです。
この通説は大久保彦左衛門こと、忠教による「三河物語」が基礎となっていて
この時代の史料としては一級のものながら
やはり、徳川の重臣が著したものですので
あまり家康を悪く書けないだろうとは思います。
史実としては、これより4年ほど前に大賀弥四郎(大岡弥四郎とも)が
岡崎城を乗っ取って、
武田勝頼の軍を引き入れようとする計画が
発覚した事件に注目する必要があります。
この裏には岡崎城内に
「このまま織田との同盟を続けていて良いのか」
信玄没後も勢力を拡大し
長篠合戦の後も勢い盛んな「武田と結ぶべきではないか」
という不安があったことが伺えます。
これは家康の浜松城とは違い、
実際に武田に領土を奪われてきた西三河衆、
岡崎城の家臣ならではの不安です。
大岡弥四郎事件では、弥四郎が七日間もかけて鋸引で処刑され、
後に岡崎城の国衆に対し家康が「岡崎在郷無用」の通達をしています。
これは、岡崎にいる国衆は岡崎に留まらず
本拠に戻れという命令をしているわけで、
ここから、信康と国衆らが接近していることを
家康が良く思っておらず、
再度の武田への内通を懸念していることがわかります。
また、「家忠日記」には
家忠が築山殿から手紙を受け取っていることが記されています。
大名の正室が家臣に直接手紙を出すという異常事態。
築山殿はほかの家臣にも手紙を書いていたようですが…
…続きます。
家忠日記読みたいけど高い!
このようなものをお書きしましたが
信康事件の真相は父・家康に対する謀反が原因か 「おんな城主・直虎」
https://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12328351750.html
今週のドラマはその後日談から高天神城攻城戦のお話でした。
ちょうど、BS日テレ「片岡愛之助の解明!歴史捜査」でも
信康事件が扱われていました。(アンコール?)
ここで「家忠日記」に当時の状況が書かれていることを知り、
新史料でも発見されない限り、
信康事件の真相は
築山殿と信康がクーデターに関わり、
家康が信康に切腹を命じ
正室・築山殿の殺害を命じたという解釈で間違いないかと思うようになりました。
この事件の根底にあるのは
徳川家康と正室・築山殿の不仲、
そして、嫡男・信康と正室・徳姫の不仲です。
今川義元の妹、あるいは伯母が母だとされる瀬名ですが、
彼女が築山殿と呼ばれるのも、
その夫との不仲が原因です。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、松平元康は岡崎に帰還。
今川配下から離れ独立、織田信長と同盟し、家康と名乗ります。
ただし、築山殿と信康ら子どもたちは人質として駿府に残されたまま。
家康の離反に今川家は激怒し、築山殿の父母は自害しています。
人質交換で母子は岡崎城へ帰還しますが、
築山殿の住まいは家康の館から1kmも離れ、
その場所が「築山」であることから、こう呼ばれているわけですが、
家康時代までの分家、十八松平の一つで
深溝(ふこうず/ふこうぞ)松平家の松平家忠が残した
「家忠日記」では彼女を「御母さま」としており、
信康らの母ではあるものの、
家康の正室だという認識は薄かったの可能性もあります。
家康にとっても、今川配下だった頃は価値のある婚姻関係でも
織田と同盟している時点では無意味か、
あるいは織田から余計な詮索を受ける材料だったかもしれません。
信康は9歳の時に織田信長の娘で、同じ年の徳姫と結婚。
二人の娘を儲けますが世継ぎたる男子は生まれず
嫁姑関係がこじれていきます。
この頃、徳姫が書いたとされるのが
信康と築山殿が武田家との密通していることや
信康の悪行などを記した織田信長への手紙です。
通説では、これに怒った信長が家康に
信康と築山殿の処断を求めていることになります。
そして、築山殿殺害、信康自害に至るわけです。
この通説は大久保彦左衛門こと、忠教による「三河物語」が基礎となっていて
この時代の史料としては一級のものながら
やはり、徳川の重臣が著したものですので
あまり家康を悪く書けないだろうとは思います。
史実としては、これより4年ほど前に大賀弥四郎(大岡弥四郎とも)が
岡崎城を乗っ取って、
武田勝頼の軍を引き入れようとする計画が
発覚した事件に注目する必要があります。
この裏には岡崎城内に
「このまま織田との同盟を続けていて良いのか」
信玄没後も勢力を拡大し
長篠合戦の後も勢い盛んな「武田と結ぶべきではないか」
という不安があったことが伺えます。
これは家康の浜松城とは違い、
実際に武田に領土を奪われてきた西三河衆、
岡崎城の家臣ならではの不安です。
大岡弥四郎事件では、弥四郎が七日間もかけて鋸引で処刑され、
後に岡崎城の国衆に対し家康が「岡崎在郷無用」の通達をしています。
これは、岡崎にいる国衆は岡崎に留まらず
本拠に戻れという命令をしているわけで、
ここから、信康と国衆らが接近していることを
家康が良く思っておらず、
再度の武田への内通を懸念していることがわかります。
また、「家忠日記」には
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築山殿はほかの家臣にも手紙を書いていたようですが…
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