Quantcast
Channel: テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

真田幸村の子供たちは伊達政宗、片倉重長が匿っていた ~仙台真田家の始まり~

$
0
0

今週の「今夜はヒストリー」では、
真田幸村が扱われましたが、
彼の子供たちについても紹介されていました。

幸村の子供たちは伊達政宗のところにいたんですね。



慶長20年(1615年)、大坂夏の陣。
真田信繁(幸村)は豊臣方の敗戦を悟るや、

今はこれで戦は終わり也。
あとは快く戦うべし。狙うは徳川家康の首ただ一つのみ


と呟くや、徳川家康本陣へと突撃。
家康に二度も自害を覚悟させるほど追い詰めますが、
衆寡敵せず、この戦が幸村の最期となってしまいます。

この日が5月7日。
お話はその前夜のことになります。
徳川勢として参陣していた伊達政宗家臣、
片倉小十郎重綱(二代目小十郎、後の重長)の元に
一人の少女が送り届けられています。
名は阿梅。幸村の三女です。
そして、幸村、討ち死に。
伊達政宗の軍はひとまず京に留まりますが、
この京では、幸村の三人の家臣が重綱を訪れています。
彼らが連れていたのが、幸村の二人(三人とも)の娘と、
一人の男の子、大八でした。

我が子たちを片倉重綱に托す、
それが幸村の遺志であったようです。

伊達軍が京を離れる時に、
重綱はこの5人を仙台まで連れていくことにしています。

徳川方に知られれば自身の命はなく、
主君・伊達政宗にも累を及ぼすかもしれません。
殊に男子である大八は
徳川に仇なす者として、殺さなければなりません。
このような大事を主に無断で判断出来るはずはなく、
当然、伊達政宗自身の考えがあったのでありましょう。

重綱は大八を客分として片倉家の白石城の外に住まわせます。
一方、4人の娘たちは片倉家の白石城で暮らし、
そのうち、阿梅は後に重綱の継室となっています。

そんな時、真田幸村の子が奥州で生きているのではないか、
という噂が流れます。
長男の幸昌は父の死を知り、切腹していることがわかっています。
しかし、大八の行方がわからないというのです。
片倉家にも疑いがかかりました。
これを収めるべく、真田家菩提寺の高野山蓮華定院に
虚報を流します。

大八君八歳の時京都にて印地打ち観覧中石に当たり他界

大八は石投げ合戦を見ている時に、
誤って石に当たり、既に死んでいるというものです。

大八はその名を片倉久米介として、
密かに暮らし続けることとなりました。
元服後は片倉四郎兵衛守信、
やがて真田姓を名乗ることにします。
しかし、真田と聞いてまた疑うのは当然で、
また幕府の調査が行われましたが、
この時は、真田は真田でも
家康の古くからの家臣である真田信尹の次男・政信の子であると、
架空の人物「政信」を創作し、言い抜けつつ、
また片倉姓に戻しています。
この後、守信の孫の代になって、
正式に真田姓に戻すことが出来たようです。
ここに、仙台真田家が興ることとなりました。



こんな話があったんですねえ。
それにしても、なぜ片倉重綱は
敵将・真田幸村の子供たちを匿うことにしたのでしょうか?
そもそも、幸村はなぜ、敵将・重綱の元へ
子供たちを送り届けたのでしょうか?
事前に手紙のやりとりでもあったのでしょうか。
もちろん、主・伊達政宗の考えもあったはずで、
お家にとっては害となるかもしれず、
利となることはありそうにない子供たちです。
徳川にとっては、男子であれば3歳の子でも殺さねばなりません。
それを匿った訳です。
その危険を冒した理由が知りたいですね。

武家の者の心得として、
駆込み者があった時には、
第一に保護しなければならないというものがあったとも聞きますが、
これもそういう事でしょうか?

ご存じの方がいらっしゃいましたら、
ぜひお教え下さい。

ねてしてタペ




Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

Trending Articles