今回はタイトルどおり、保元の乱前夜までの描写でした。
そこで、なぜ保元の乱が起きたのかについて、
あらためてまとめてみたいと思います。
現実にはどうだったのかは不明ですが、
鳥羽法皇が崇徳天皇を
叔父子
と呼んで疎んでいたとすれば、
そもそもは白河法皇にその原因があるのでしょう。
白河法皇の生涯 その1
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11138802543.html
白河法皇の生涯 その2
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11139692123.html
にお書きしていますが、この大河ドラマで採用されているように、
鳥羽上皇は、自分の子であるはずの崇徳天皇を
自分の祖父と中宮・待賢門院璋子の間の子だと考えていることになります。
また、璋子と後から入内した美福門院得子が
不仲であったことも重要になってきます。
璋子を遠ざけ、得子を寵愛する鳥羽上皇、
その鳥羽上皇と得子の間に体仁(なりひと)親王が誕生、
親王が3歳になると、崇徳天皇に譲位を迫ります。
もちろん、「自分たちの子」である体仁親王を
帝位につけるためです。
もちろん、崇徳天皇には譲位しなければならない理由はないんですが、
この時、一つの約束が交わされたとされています。
それが
体仁親王が即位する際には皇太子として
というものでした。
実際に鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子としています。
院政が続いてたこの時代、
実権を手にするために、
崇徳天皇も上皇となれば、
天皇以上の権力を手に入れられると考えたのでしょう。
院政は天皇の父、または祖父が行うものだからです。
こうして、崇徳天皇は譲位と、
体仁親王、即ち近衛天皇の即位に同意したのでした。
しかし、現実は違っていました。
約束では
皇太子
となっているはずの体仁親王が
皇太弟
という扱いになっていたのです。
近衛天皇は崇徳天皇の子としてではなく、
弟として即位したことになります。
これでは崇徳天皇に院政の機会はやってきません。
鳥羽上皇と得子の子が天皇となったのです。
鳥羽上皇と得子に謀られたことに
コハイカニ
と、崇徳天皇は怒り、
二人に対する恨みをさらに強くしたとされます。
しかし、崇徳も諦めたわけではなかったようです。
近衛天皇が17歳で崩御すると、彼に皇太子がいなかったため、
自身の長男・重仁親王の即位を願うようになります。
この重仁親王の系譜を見てみますと、
白河 - 堀河 - 鳥羽 - 崇徳 -
と直系の血筋で結ばれていることがわかります。
順当なら重仁親王だと、
崇徳が考えたのも当然かもしれません。
さもなくば、崇徳自身が復位する可能性も考えていたとか。
ここでも、崇徳は期待を裏切られます。
鳥羽法皇が選んだのは崇徳の弟・雅仁親王でした。
彼が後白河天皇となります。
この決定は、鳥羽法皇と得子による崇徳の排斥という意志の他に、
信西の影響力が関わっているとされています。
藤原通憲は、藤原氏ではあるものの、
藤原氏の中でも支流の家柄で、
政治の中枢に関わることはない身分でした。
当世無双の宏才博覧
と称された博識も、世襲の世には限界があります。
やがて彼は出家し、信西と名乗るようになり、
僧として鳥羽法皇の近臣となりました。
また、雅仁親王の乳母を妻とし、
近衛天皇が崩御した時、雅仁親王を天皇にすべく、
鳥羽法皇に働きかけます。
この時、得子は守仁親王を養子にしていました。
この子は雅仁の第一皇子ですが、出生後の生母急死により、
得子が養育していたのです。
鳥羽法皇と得子は、
この守仁親王に帝位についてもらいたいと考えています。
ここに付け入ったのが信西で、
実父が天皇でないのに、その子が天皇になった例はないと言い切り、
また、実父の雅仁が存命中であるのに、
それをを飛び越えて幼少の親王が即位するのは、と反対しています。
鳥羽法皇と得子は、守仁親王を即位させるべく、
雅仁には即位の後、すぐに譲位するという約束させ、
後白河天皇が誕生させることとしました。
こうして、信西は乳母の夫を天皇にすることが出来ました。
翌年、鳥羽法皇が崩御、
皇位継承問題を原因の一つとして、
保元の乱が起きることとなります。
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