次回、保元の乱の戦後処理が描かれると思うんですが、
藤原摂関家のその後について
どの程度触れてくるのかわかりませんので、
ここで記事にしておきたいと思います。
その前に藤原頼長の最期を。
保元元年(1156年)7月11日、後白河天皇方に敗れた藤原頼長は、
家司(けいし/貴族の家政担当職員)に抱えられ、
騎馬(劇中では輿)にて戦火の御所から脱出しようとします。
しかし、(この後源為義を捕縛することになる)源重貞が射た矢が、
頼長の首に刺さり、11日から13日にかけて、
そんな状態で嵐山から桂川、
そして木津へと逃走を続けます。
最後の望みとして辿り着いたのが父・忠実がいる奈良でした。
頼長よりも早く奈良・興福寺へと逃れていた忠実、
その父は深手を負った息子が既に門前にまで来ていて、
中へ入れてくれと言っていると聞き、
それを伝えてきた者にこんな事を言ったそうです。
氏の長者たる程の者の兵仗の前に懸かるる事やある。
さように不運の者に対面せむ事由なし。
音にもきかず、まして目にも見ざらん方へ行けと云べし。
――氏の長者たる程の者が兵乱に負けた上、
こんな怪我を負うことがあってよいはずはない。
そんな不運な者に会わねばならぬ理由はない。
噂も届かず、目にも留まらぬような所へ行け、と言え――
最も愛した息子・頼長を中へ入れようとしません。
それは藤原摂関家を守るため。
連座して捕らえられないためでした。
7月14日、父にも見捨てられた悲しみと絶望の中、
藤原頼長は死にます。
頼長の遺体は奈良の盤若野(般若寺のあたり?)に埋葬されますが、
天皇方は頼長が受けた矢を神罰とし、
信西は頼長が確かに死んだのか、この遺体を検めるよう命じ、
墓が暴かれるという死後にまで恥辱を受けることとなってしまいます。
保元の乱の一つの要素は藤原忠通と藤原忠実・頼長の対立でした。
長男・忠通は勝者となりますが、
父・忠実の罪を赦すよう願い出てもいます。
それは父親だからというよりも、
藤原摂関家で最も力があったのは忠実であり、
所領も忠通や頼長のそれが及ぶべくもないほどで、
もしも、忠実の所領が没収されてしまえば、
摂関家の財力は地に落ちてしまいます。
この時点で忠通は藤原摂関家の氏長者ではなく、
父から義絶(縁切り)された存在で頼長が氏長者。
その頼長が謀反人ですから、朝廷が忠通を氏長者とする訳なんですが、
ここで、藤原摂関家の独自性が失われてしまうこととなります。
また、所領もほぼ全て没収されそうになりますが、
代々の私有の所領としてなんとか回復するに至ります。
かつて栄華を極めた藤原道長の時代のように、
摂関家による政治を目指した藤原忠実・頼長でしたが、
摂関家の内紛によりその力を衰退させたといえそうです。
それは信西の目論見でもあった訳でして。
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