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ビーバップ!ハイヒール「知られざる涙の“なでしこ”物語」 その2 女子フィギアの先駆者 稲田悦子

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人見絹枝の壮絶な闘い
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11316992810.html

こちらからの続きとなっております。



オリンピックは、勝つことではなく参加することにこそ意義がある

とは、近代オリンピックの創立者であり、
タルボット大主教のこの言葉を広めたことで有名な、
フランスのクーベルタン男爵は、
オリンピックへの女性選手の参加を反対していました。

オリンピックの真の勇者は男性。女性の役目は優勝者をたたえること

が彼の考えであったようです。



荒川静香は2006年トリノオリンピック、
フィギアスケート女子シングルを金メダル獲得します。
これが日本女子フィギア界の悲願達成の瞬間でした。

そこから遡ること、70年。
1936年1月、ベルリンで開催されたヨーロッパフィギュアスケート選手権に
出場した日本人女性選手がいました。

稲田悦子。

年齢は12歳。

この時、ドイツ総統のヒトラーから握手を求められたそうです。


稲田悦子は1924年、大阪の時計店に末娘として生まれ、
8歳からスケートを始めて、
11歳の時の1935年、日本選手権女子シングルで優勝しています。


1936年1月のベルリンでの欧州選手権の翌月、
同じくドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピックに出場、

稲田悦子12歳 ガルミッシュ・パルテンキルヘンオリンピック(JOC)

この時の12歳という年齢は、
今現在も夏冬ともにオリンピック出場日本人選手の最年少記録となっています。

結果は10位。
しかし、3連覇の金メダリストから

やがて彼女の時代が来る

と賞賛されています。

その後も全日本選手権女子シングルで負け知らず、
1940年の札幌オリンピックで代表選手となり、
メダルが確実視されてもいました。

しかし、日中戦争の影響で日本は札幌開催を断念、
スケートリンクも閉鎖されていきます。
彼女はいつか世界で演技出来る日が来ることを信じ、
六甲山の氷上で滑っていたそうです。

1945年終戦。
翌年結婚して引退。

1949年にカムバック、
その実力は1951年の7度目になる全日本選手権女子シングル優勝で、
イタリアでの世界フィギュアスケート選手権代表選手となります。
稲田悦子28歳。
戦争の責任を負わされ、
参加が認められなかった日本の選手としては15年ぶりの参加でした。

ただし、問題がありました。
彼女には衣装もスケート靴もなかったんです。
まだ戦後であり物資不足、
稲田悦子は母とともに、布団カバーをほどいて衣装を作り、
タイツもないので、男性用の股引で代用しました。

彼女にとっては15年待ち続けた世界の晴れ舞台。
しかし、その姿を見て、
会場からは笑いが漏れていたそうです。

出場選手23人中、21位。

それが結果でした。
日本が世界から離れていた15年という年月は、
演技も音楽も、フィギアの国際舞台において時代遅れにしていました。
これが彼女の最後の演技となります。

翌年に引退、後進の育成にあたり、
皇族方へのスケート指導も行ったそうです。


世界一になるには努力、努力、努力。

それが彼女の信念であったそうです。
そして、

五輪は参加することに意義があるなんて嘘。本番のたった一回のチャンスに成功し、一位にならなくちゃ

との言葉を遺しています。





ねてしてタペ



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