8日の番組からお書きしている不定期の記事の続きです。
前回は番組以外のお話も混ぜて、
#1 八代将軍・徳川吉宗
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11332966908.html
をお書きしました。
この中で、経済の観点からは
「享保の改革」は良い影響を与えなかった、
江戸城の財政は劇的に回復しています。
番組のでは、彼が将軍職に就いた時のは、
48万両(384億円)の借金があり、
それが15年目には
逆に100万両(800億円)の貯蓄が出来たとしていました。
しかし、幕府の財政には効果があったものの、
日本全体では失敗だったのでしょう。
倹約令を発し、自らも率先してそれを実行する吉宗でしたが、
それに従わなかった大名がいました。
将軍の施政に逆らおうとする大名、
しかも、それはただの大名ではなく、
徳川御三家・尾張藩第七代藩主の徳川宗春でした。
質素倹約が義務づけられた享保年間、
祭や芝居も禁じられてしまいました。
宗春はそれに従わず、奨励もしていて、
藩士たちの芝居見物も許可していました。
彼は尾張の庶民の人々の消費を促します。
そのために、自分自身がパフォーマンスをして見せます。
領内を巡視する際には、朝鮮通信使の姿をして見せたり、
これは1655年に描かれた朝鮮通信使ですが、
殿様がこんな格好で下々の前に現れるとは
ずいぶんと型破りです。
また、現代の名古屋にはこんな金ピカのポストがあるそうで、
尾張藩 七代藩主 開運ポスト宗春
と書かれてあるとか。
上の人物が宗春で、彼の両脇に見えるのが牛の耳と角です。
当時、白い牛に乗り、長煙管を手に
(番組では5尺/1.5m、ネット上には2間/3.6mという記述も)
市中を移動していたことがあるらしく、
それをポストで表現しているもののようです。
自らがド派手な格好をして、
消費を刺激しようとしていたとのこと。
吉宗は年貢を「四公六民」から「五公五民」へと、
大増税を行いました。
しかし、宗春は「四公六民」以下を続け、
増税が経済を冷え込ませることを理解していました。
公共事業も盛んに行いました。
享保の改革では、増え続けていた日本の人口が頭打ちとなりますが、
尾張領内では宗春が藩主となった3年間で
40%も人口が増えています。
後の三越である越後屋が支店を出店、
呉服問屋であった松坂屋が
呉服太物小売商となり大成功したのもこの時代です。
日本中の他の地域とは違い、
尾張は間違いなく好景気に沸いていました。
名古屋の繁華にキョウがさめた
などとも言われたそうです。
京の都も興が冷めたという掛詞ですね。
この後、朝廷と江戸とのトラブルに巻き込まれ、
幕府の陰謀ともいわれるクーデターの責任を負わされ、
隠居謹慎の身となります。
徳川宗春の施政については、
今回、たいへん興味を持ちましたので、
またの機会に記事にさせていただくとしまして、
経済の観点から、
吉宗のそれと比較され、
常に引き合いにされるのが宗春のようですね。
前回は番組以外のお話も混ぜて、
#1 八代将軍・徳川吉宗
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11332966908.html
をお書きしました。
この中で、経済の観点からは
「享保の改革」は良い影響を与えなかった、
江戸城の財政は劇的に回復しています。
番組のでは、彼が将軍職に就いた時のは、
48万両(384億円)の借金があり、
それが15年目には
逆に100万両(800億円)の貯蓄が出来たとしていました。
しかし、幕府の財政には効果があったものの、
日本全体では失敗だったのでしょう。
倹約令を発し、自らも率先してそれを実行する吉宗でしたが、
それに従わなかった大名がいました。
将軍の施政に逆らおうとする大名、
しかも、それはただの大名ではなく、
徳川御三家・尾張藩第七代藩主の徳川宗春でした。
質素倹約が義務づけられた享保年間、
祭や芝居も禁じられてしまいました。
宗春はそれに従わず、奨励もしていて、
藩士たちの芝居見物も許可していました。
彼は尾張の庶民の人々の消費を促します。
そのために、自分自身がパフォーマンスをして見せます。
領内を巡視する際には、朝鮮通信使の姿をして見せたり、
これは1655年に描かれた朝鮮通信使ですが、
殿様がこんな格好で下々の前に現れるとは
ずいぶんと型破りです。
また、現代の名古屋にはこんな金ピカのポストがあるそうで、
尾張藩 七代藩主 開運ポスト宗春
と書かれてあるとか。
上の人物が宗春で、彼の両脇に見えるのが牛の耳と角です。
当時、白い牛に乗り、長煙管を手に
(番組では5尺/1.5m、ネット上には2間/3.6mという記述も)
市中を移動していたことがあるらしく、
それをポストで表現しているもののようです。
自らがド派手な格好をして、
消費を刺激しようとしていたとのこと。
吉宗は年貢を「四公六民」から「五公五民」へと、
大増税を行いました。
しかし、宗春は「四公六民」以下を続け、
増税が経済を冷え込ませることを理解していました。
公共事業も盛んに行いました。
享保の改革では、増え続けていた日本の人口が頭打ちとなりますが、
尾張領内では宗春が藩主となった3年間で
40%も人口が増えています。
後の三越である越後屋が支店を出店、
呉服問屋であった松坂屋が
呉服太物小売商となり大成功したのもこの時代です。
日本中の他の地域とは違い、
尾張は間違いなく好景気に沸いていました。
名古屋の繁華にキョウがさめた
などとも言われたそうです。
京の都も興が冷めたという掛詞ですね。
この後、朝廷と江戸とのトラブルに巻き込まれ、
幕府の陰謀ともいわれるクーデターの責任を負わされ、
隠居謹慎の身となります。
徳川宗春の施政については、
今回、たいへん興味を持ちましたので、
またの機会に記事にさせていただくとしまして、
経済の観点から、
吉宗のそれと比較され、
常に引き合いにされるのが宗春のようですね。