Quantcast
Channel: テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

江~姫たちの戦国~ その背景 -関ヶ原の戦い その14- 毛利家と吉川広家のその後 恨みは幕末へ

$
0
0

大河では大坂の陣も終わり、
なぜか訳の分からない展開により、
秀忠が秀頼と淀を殺していました。
死の責任についてはいいとしても、それなら、
なぜ、そこまでに秀頼に手紙を書いたり、
命がけで大坂城内まで会いに行ったりさせたんでしょ?
それを踏まえての展開があるのかと思えば、
納得出来る話でもなんでもなくて、
彼の心変わりをが全く意味不明でした。
描けないのであれば、最初から冷徹でよかったのでは?


それはともかく、関ヶ原の戦後についての2回目。
今回は西軍の大黒柱、毛利家についてです。

吉川広家は、西軍の敗北を信じていたため、
戦場では「兵に飯を食わせている」などと、
口実を設けて、毛利軍本隊を進軍させませんでした。

西軍総大将・毛利輝元の名代・秀元の軍も動けないまま、
西軍の敗北となりました。

広家の読み通りの結果です。


一方、大坂城から出なかった毛利輝元は、
関ヶ原で西軍が敗れたのを知り、
どう振る舞うべきかを考えていたところへ、
戦場から秀元と立花宗茂らが戻って来ました。
彼らは大坂城に籠もり、家康の軍を迎え撃とうと言っています。
迷う輝元の元へ使者が訪れました。
東軍の福島正則と黒田長政からの使いで、
徳川家康の意向を伝えてきました。

それは、忠節を勤めれば領国は安堵(保証)するという約束でした。
これに安心した輝元は、秀元らが止めるのも聞かず、
大坂城を退去してしまいました。
この時、既に吉川広家が
家康に内応していたことを聞いていたのです。

難なく大坂城に乗り込んだ家康は、
手のひらを返して、毛利家は改易だと言い始めました。
しかも、領地は没収だと言います。

これに慌てたのが広家でした。
広家は予め家康から、毛利家安堵の約束を得ていました。
それが反故にされた訳です。
広家は慌てます。

広家には徳川重臣・本多忠勝、井伊直政の血判付きの誓書があり、
さらには福島正則と黒田長政の副書まであります。
確たる約定書であるはずでした。

しかし、そこに徳川家康の朱印もなければ、
花押もありませんでした。
家康側は、そんな約定など知らぬと突っぱねます。

そして、さらに広家には驚かされることがありました。
家康は広家に褒美として、
周防と長門を加増するというのです。
毛利の軍2万を南宮山に留めていた功績を認めての加増です。
周防と長門は毛利家の領地。
家康は、本家毛利家から奪った領地を、広家に与えようというのです。

広家は嘆願しました。
自分の領地は構わないので、それを毛利家に与えてくれと。
彼の毛利本家への忠節心に心動かされたのか、
家康はそれを聞き入れ、
毛利家は周防・長門36万石への減封となりました。
ただし、毛利家が望む山口城ではなく、
閑村、萩を本拠とせよと命じます。

120万石から36万石へ。
具体的には東軍と戦っていないにもかかわらず、
謀るようにして、毛利家を本州の西端に追いやった徳川に対する恨みは、
260年の間、脈々と受け継がれ、
その怨念がこの

龍馬伝 第9回 「命の値段」 その背景 土佐 - 薩摩・長州との違い
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-10477049505.html

秘密の儀式に繋がります。


また、本家のためを思えばこそ、家康と内応したはずが、
彼に騙された形の吉川広家は、
家康からは岩国一国を与えられます。
毛利家の中には、広家の浅知恵がこの減封を呼んだという声もあり、
以後、吉川家は毛利本家から距離を置かれてしまいます。


ねてしてタペ







Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

Trending Articles