桜宮高校バスケット部の事件は、
それを行った側に、教育的意図を一切感じられませんので、
(さらには保身に走っているし)
体罰ではないという結論は既にお書きしましたが、
それでは一般論としての体罰の是非はどうなのでしょうか?
元プロ野球投手の桑田真澄さんが持論を述べておられます。
「体罰は自立妨げ成長の芽摘む」桑田真澄さん経験踏まえ
http://www.asahi.com/edu/articles/TKY201301110314.html
彼は2009年、早稲田大学大学院時代、
論文作成のためにプロ野球選手と大学野球の選手を対象に、
計550人にアンケートを実施されたそうです。
体罰の経験について、
指導者から受けた - 中学45% 高校56%
先輩から受けた - 中学36% 高校51%
このような結果が得られたそうです。
桑田さんは「意外に少ない」という印象だったとか。
そして、体罰の必要性については、
体罰は必要 / ときとして必要 - 83%
と大半がそれを肯定していました。
桑田さんはこの結果に
あの指導のおかげで成功した
という思いからかもしれないけれど、
指導者や先輩の暴力で、失明したり大けがをしたりして選手生命を失うかもしれない。それでもいいのか、と。
と、それを肯定している人たちに問いかけています。
桑田さんは体罰の必要性を完全に否定し、
それが子供たちの将来を奪う可能性があると指摘します。
スポーツにおいては、
最も恥ずべきひきょうな行為
だと斬り捨てています。
殴られることが厭でスポーツを捨てざるをえなかった人たちを見てきた彼は
それはスポーツ界の損失であると言います。
野球で三振してベンチに帰ってきた子を殴って叱るとします。
すると、その子は次の打席でどう考えるでしょうか?
バットにボールを当てようとするでしょう。
そのためにフォームが縮こまり、
正しいスイングから遠ざかってしまうことにもなります。
正しいスイングを体得させるためには、
タイミングが合ってないよ。どうすればいいか、次の打席まで他の選手のプレーを見て勉強してごらん
というようなアドバイスをすることこそ、
本当の指導だと考えます。
体罰を受けた子供は、次に何を考えるでしょうか?
何をしたら殴られないで済むだろう
という思考でしょう。
そこにスポーツは関係ありません。
指導者や先輩の顔色が最優先されます。
体罰を正当化する人たちは、
極限状態に追い詰めて成長させるために
ということがあるようです。
しかし、彼は自身の最も成長した時期を、
体罰のなかった高校時代だと認識しています。
また、
愛情の表れなら殴ってもよい
という理論に対しては、彼は今まで受けてきた体罰に
愛情を感じた事は一度もない、と。
伝わるかどうかわからない体罰ではなく、
指導者が教養を積んで伝えた方が確実です。
最後に
日本のスポーツ指導者は、指導に情熱を傾けすぎた結果、体罰に及ぶ場合が多いように感じます。私も小学生から勝負の世界を経験してきましたし、今も中学生に野球を教えていますから、勝利にこだわる気持ちは分かります。しかし、アマチュアスポーツにおいて、「服従」で師弟が結びつく時代は終わりました。今回の残念な問題が、日本のスポーツ界が変わる契機になってほしいと思います。
とこの記事は結ばれています。
桑田さんの「千本ノック」についてお話。
それは百害あって一利なしだと彼は説きます。
千本ものノックを全力で受けきるのは不可能で、
もしも、最後まで全力でボールを追いかけようとするならば、
その選手は怪我をすることでしょう。
もしも最後までやりきった選手がいたとすれば、
それは全力ではなくその選手はどこかで手を抜いているはずです。
手を抜きつつも、懸命に追っているように見えるための
要領を体得していることでしょう。
上手くなるのは、手の抜き方、
要領の良さだけで、そこに守備の上達は無関係です。
たしか、このようなお話をされていたと思います。
さすがに人格者である桑田さんらしいお話ですね。
しかも論理的です。
私も著作を何冊か読んでいて、
監督になって欲しい人物の一人です。
仮に体罰に愛情が含まれているとしましょう。
それでも、体罰を受けた側がどう受け取るのか、
それは把握出来ない事柄です。
子供がそこに指導者の愛情を感じられなければ、
教育的意義はありません。
結局のところ、それは教育する側の
安易な手段に過ぎないのかもしれません。
言葉などで説くことが出来ないから、
殴って終わり、そういう事なのかもしれません。
¥1,575
Amazon.co.jp
野球を学問する/桑田 真澄
¥1,365
Amazon.co.jp
野球道 (ちくま新書)/桑田 真澄
¥756
Amazon.co.jp