スポーツの世界でスーパースターと呼ばれた選手たち。
陸上ハンマー投げ・室伏広治、
柔道・田村(谷)亮子。
野球・長嶋茂雄。
この3人の活躍は、私たちも知るところであり、
常に勝ち続けたからこそ、スーパースターである訳ですが、
勝者の裏には必ず敗者がいる
ものです。
その敗者たちの姿を私たちは知りません。
先生はスポーツライターの織田淳太郎さん。
「選手より面白い?審判ストーリー」 サムライジャッジと世紀のジャッジ
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11055266210.html
前回の「審判」のお話に続いて、
2回目のご登場です。
アテネオリンピックの男子ハンマー投金メダリスト・室伏広治。
投擲の分野でアジア勢が金メダルを獲得したのは、
この時が初めてでした。
日本選手権18連覇もまだ終わった訳ではありません。
土居宏昭
日本選手権9年連続、第2位。
中学時代は砲丸投げの選手で、
2年の時には全国制覇を成し遂げています。
ハンマー投げに転向したのは高校2年の時。
インカレ3連覇を達成するなど、
周囲は彼に輝かしい未来を見ていました。
年齢は室伏のわずか4歳下。
彼の前には、上には常に室伏がいました。
2003年から日本陸上競技選手権大会で、
室伏に次いで第2位。
次の年も、その次の年も。
それは9年間続き、その間にオリンピックが2回通り過ぎました。
2008年、所属していたファイテン陸上部が廃部、
会社を辞めるかハンマー投げを辞めるかの選択を迫られます。
彼の選択は会社を辞めること、でした。
チームミズノアスレティックを経て、
千葉陸上競技協会に。
そして、元ハンマー投げ選手が経営するITカンファーに所属し、
現在は流通経済大学に職員として勤務しています。
流経大陸上部で指導を続けながら、
現役の選手でもあります。
何も手に入らなかったら、
じゃあ、何でやってたのかなって。
やっぱ、結果ですね。
「終わりよければすべてよし」っていう
ことわざがあるぐらいなんで、
終わりが大事なんで
現役を続ける理由をそう語ります。
彼は今もずっと、
室伏広治に挑み続けているのです。
オリンピックで2回、
世界選手権で7回もの金メダルに輝いた田村(谷)亮子。
長井淳子
父は東京オリンピックの日本代表の柔道一家に生まれます。
彼女が柔道の才能を開花させたのは高校時代でした。
高校2年と3年と全国選手権を連覇。
その鋭い得意技の内股から、
「切れ味の長井」と呼ばれるようになります。
もちろん、彼女の目標はオリンピック。
それもその金メダルでした。
その前に立ちふさがったのが、
同じ階級の谷亮子でした。
既にスター選手だった彼女を倒さなければ、
オリンピック日本代表の道は見えてきません。
彼女に勝つために、稽古に励み、
1992年全日本女子選抜柔道体重別選手権大会48kg級決勝にて、
長井はついに田村と対戦します。
この大会はバルセロナオリンピックの選考会でもありました。
長井は大学1年、田村は高校2年の時です。
先制したのは長井。
有効のポイントを得ます。
有効を取り返す田村。
そのまま決着が付かず勝負は判定となります。
結果は田村亮子の判定勝ち。
「今のままではあの人には勝てない」
そう考えた長井はバルセロナオリンピックに出場する
田村の調整役を買って出ます。
帰国後も田村に勝つという決意で、
稽古を続けました。
そして翌93年の体重別選手権大会の決勝まで
勝ち進んだ長井の対戦相手は、
やはり田村亮子でした。
長井は確実にレベルアップしていました。
しかし、長井が強くなったように、
田村も強くなっていました。
判定負け。
その後の体重別。
1994年、判定負け、優勝、田村亮子。
1995年、判定負け、優勝、田村亮子。
1996年、判定負け、優勝、田村亮子。
1997年、判定負け、優勝、田村亮子。
「永遠の2番手」
表彰台で悔し涙を浮かべる彼女に、
こんな異名が付けられてしまいました。
「このままでは柔道で世界一にはなれない」
そう考えた彼女は一つの決断をします。
それは階級を上げることでした。
田村亮子以外には圧勝出来る実力があり、
また、田村が出場していない大会では優勝していました。
世界の柔道界からは、
「3本の指に入る」と評されてもいます。
だから、彼女がいない階級なら、
世界一に手が届く、
そう考えるのは自然なことでした。
反対する者はいないはずです。
当時の長井のコーチ野瀬清喜にその決心を伝えます。
コーチの言葉は意外なものでした。
「長井、田村に挑戦するのは辛いだろう。
でも、逃げないからこそ、
その素晴らしさがあるんじゃないか?
挑戦し続けて、いつか勝つ。
それは五輪で金メダルを獲るのと同じくらい、
凄いことだと俺は思う」
この言葉に長井の考えが変わりました。
「わかりました。
田村に勝って、金メダルを獲ります」
1997年、フランス国際柔道大会優勝。
1997年、東アジア選手権優勝。
1998年3月、8月、全日本実業柔道個人選手権大会優勝。
そして、1999年、全日本女子選抜柔道体重別選手権大会48kg級決勝。
これに勝てばシドニーオリンピック代表です。
相手は田村亮子。
両者お互いの手の内を知り尽くした相手。
双方ポイントを奪えないまま判定へ…
結果は
田村亮子の判定勝ち。
翌年、シドニーで田村は悲願の金メダルを獲得。
日本中が歓喜に湧く中、
長井は26歳で現役を引退します。
彼女の引退を報じる新聞の記事は、
こんなにも小さなものでした。
ひっそりと開かれた引退会見引退会見で長井は
このような言葉を話したとされます。
もし田村選手に勝っていたら、
悔しさを忘れてしまう。
私はずっと負け続けてきたから、
悔しさ、辛さを忘れないでいられる。
負けて終わった方が私らしいかな
彼女の全日本女子選抜柔道体重別選手権大会では、
1992年、判定負け、優勝、田村亮子。
1993年、判定負け、優勝、田村亮子。
1994年、判定負け、優勝、田村亮子。
1995年、判定負け、優勝、田村亮子。
1996年、判定負け、優勝、田村亮子。
1997年、判定負け、優勝、田村亮子。
1998年、判定負け、優勝、田村亮子。
1999年、判定負け、優勝、田村亮子。
2000年、判定負け、優勝、田村亮子。
全て決勝での判定負けとなっています。
田村とは計10度対戦し10敗。
しかし、一度も一本負けしていません。
田村の対戦成績を確認しますと、
キューバのアマリリス・サボンと12度対戦し、
田村は彼女に対して12勝のうち4回の一本勝ちがあります。
長井からは一本を取れなかったのでしょう。
実力は伯仲。
スポーツで審判が勝敗を判定する場合、
挑戦者が試合内容で大きくリードしていないと、
なかなか勝てるものではないようです。
引退後、長井は指導者となります。
数々の有力選手を育て、
その中には、
アテネ、北京と2大会連続金メダルの谷本歩実がいます。
彼女の得意技は
長井と同じ、
内股なのでした。
北京では、内股一閃で一本勝ち、金メダルを決めています。
次回は番組の続き、
長嶋茂雄さんがN0.1なら、
No.2は故難波昭二郎さんのお話をお書きする予定です。
…とはいうものの、
7日夜、8日夜までこのブログに関われませんので、
また懲りずにいらっしゃって下さればと思います。