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コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~ 平将門

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このブログでは初めてとなります。
正しくは「(秘)」ではなく○の中に秘です。
ただ、環境依存文字なので、とりあえずこの形に。

この番組は小籔千豊さんがメイン、
ザ・プラン9のお~い!久馬さんがにゃんたの声でご出演です。

朝日放送のこの番組は
タイトルのとおり、歴史を扱う番組ですが、
歴史バラエティとしての特徴は、
古文書からのエピソード紹介、
人物描写が行われている点です。


今回の番組は

日本の夏、怨霊の夏

ということで、
日本三大怨霊、菅原道真、平将門、崇徳院の中から、
平将門についてでした。
次回が道真のようです。

まずは基本的なお話。
平将門は平安時代中期、10世紀前半の人。
桓武天皇の血を引いている人。
そういえば、彼が京にいた頃は、
まだ都は道真の呪いに悩まされていたんですね。

現在の千葉県の上総国、あるいは下総国で
平良将の子として生まれていますが、
生年は不詳。桓武天皇の血を引いています。
世は藤原氏の時代ですから、
彼の官位は低く、京では検非違使を志しますが、
挫折して帰郷。
故郷に戻ってみると、父の所領が叔父に奪われていて、
あまつさえ自分が新たに拓いた土地を奪おうとした叔父らを殺害、
彼は武芸のカリスマであり、
東国の武士たちを従えていきます。
そして東国の独立を宣言し、自らを

新皇

と称しました。
しかし、平貞盛・俵藤太により討伐、
その首は京で晒されてしまいます。
これが我が国初の獄門晒し首なんだとか。

今も彼の首があったとされる場所には祠があり、
その晒された首は宙を舞い、
東国まで飛んでいったという伝説があります。
そして、関東にはその首が落下してきたとされる地点が多数。
多くが「平将門の首塚」として祀られています。
東京の「神田」という地名も、
将門の「体」からの訛りだという伝説まで。

いろいろとある

平将門怨霊伝説

ですが、まずはその将門の首のお話から。


平将門の生首は○○で○○した

「平治物語」には

昔将門が生首の獄門に晒されているところを
藤六左近という人が見て、
「将門って、俵藤太さんにこめかみを斬られたんだよなあ」
と歌を歌ったところ、
将門の生首が
「こめと俵って、掛詞かかってるやん!」
と言って笑い出した。


と。
いちおう、元の歌も記しておきます。

将門は こめかみよりぞ 斬られける
俵藤太が はかりごとにて


そして、首が東の空に飛んでいくのは、
この後になります。

要するに、この後、将門の首は移動させられた訳ですね。
将門の旧臣か誰かに。
ただ、この首の番人にしてみれば、
「盗まれました」と報告すると、
責任問題になるので、
「あの首、首だけのくせに笑いよってん!
そんで飛んで行きやがった!」
と怨霊にしてしまったのではないか…、
という説があります。

以上、

平将門の生首はダジャレで爆笑した

でした。


次は、彼の人物像のお話。

平将門は言っていることが○○

「将門記」より旧主・藤原忠平への手紙には、

私的には、不本意でしたが、
やむをえず国を一つ滅ぼしました。
この罪は重く感じ、大いに反省しています。
ただ僕、天皇の孫なんですよね。
だから、その国を領地にするのも、
アリナシでいうと、アリの側だと思うんです。
武力で天下を取ったエピソードも、
歴史本に載っていますし、
オレには武力の才能があるんでか、
支配するのは自然?的な…、
つーか、オレほど強いヤツなんていますか!?


と。

親分気質の将門は誰かに
「あいつに酷い目に遭われました」
なんて頼られると、
そいつに味方して相手を倒してみたりしています。
弱い者の味方といえば聞こえはいいんですが、
事後、よくよく話を聞いてみると、
元々悪いのは最初に頼ってきた奴のほうだった、
そんな誤解と行き違いで将門の乱は大きくなっていきます。
上の手紙では最初に謝罪して見せていますが、
やがて威圧的な態度になっています。
「オレは謝ったで。やるんやったらやるで?」
みたいな感じでしょうか?

以上、

平将門は言っていることがコロっと変わる

でした。


平将門は敵の奥さんを捕らえたとき、
○○で○○した


「将門記」より

敵将・平貞盛の妻は、服をはがされ、肌が露出し、
すでに相当な辱めを受けていた。
部下は「貞盛の妻はイイ女っす!」という。
それを聞いた将門は
「流浪の女性は元の村へ返してあげる、というのが決まり事だ。
無礼があってはならない…」といって、
貞盛の妻に服を渡し、
さらに彼女の機嫌を伺うため、
一首の歌を詠んで捧げた。
-

敗走した貞盛の軍、
将門の側が周囲をしたところ、
貞盛の妻がさまよっているところを発見、
彼女を捕らえて、貞盛の行方を探ろうとします。
上はその場面。

よそにても 風の便りに 吾そ問ふ
枝離れたる 花の宿りを


これがその時の将門の歌で、
遠く離れていても風の便りによって、
枝を離れた花を尋ね求める。
と歌い、貞盛の妻に夫の居場所を尋ねています。
彼女は返して、

よそにても 花の匂ひの 散り来れば
我が身わびしと 思ほえぬかな


と。
離れていても、花の香りが散ってやってくるのだから、
私の身の上がわびしいものとは思わない。
そう答えています。
東国の武士たちがこのやりとりを見て、
やはり、都にいた人は違うな、と
その雅に感嘆したとされています。

以上、

平将門は敵の奥さんを捕らえたとき、
歌でフォローした


でした。


ちょうど、家康以前の東国に興味がありますし、
平将門について勉強してみたくなりましたね。

まずはこのあたりの小説から始めてみましょうか。





ねてしてタペ



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