白河法皇の生涯 その1
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11138802543.html
こちらの昨夜の記事からの続きです。
清盛出生の秘密
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11131666140.html
この中で、清盛が白河法皇の子ではないかという話をお書きしましたけれど、
この顕仁親王にも同様の話があります。
この大河ではそれに沿っているようです。
清盛の話よりもさらにドロドロしているのは、
これが事実であるならば、
自分の子を孫の子としているからなんですけれど、
さらにその子を生んだのが鳥羽天皇の皇后だというんですね。
まだ話はややこしくて…
藤原璋子(たまこ)という娘がいました。
7歳で父を失い、白河法皇と祇園女御に育てられます。
養父である法皇は璋子を、息子・鳥羽天皇の中宮としますが、
この養女で息子の妻に法皇が手を出して生ませたのが、
顕仁親王だとというんですが…
これは鎌倉時代初期の「古事談」に書かれているそうです。
1123年、この顕仁親王が5歳で皇太子、
同日、鳥羽天皇からの譲位を受けて、
崇徳天皇となります。もちろん、白河法皇の意向です。
初回のドラマではこのような描写に。
帝位を顕仁親王に譲る、
というか親王が帝位に就く事になったので、
退位せよとは鳥羽法皇、そして驚く鳥羽天皇。
そこへ自書を見せにやってきた顕仁親王に鳥羽天皇は、
苦しゅうない。父に見せるがよい
と"我が子"に促しますが、
親王が書を見せたのは、白河法皇で…
彼にとっての"父"は白河法皇だという演出になっていました。
帝位を顕仁親王に譲るということについて異議を唱える鳥羽天皇でしたが、
帝よ、ここはわしの世じゃ
と法皇は鈍く低い声で言葉を返します。
古事談によりますと、鳥羽上皇は崇徳天皇を
叔父子
と呼び、忌み嫌っていたとか。
妻が産んだ子でありながら、
祖父の子であり、つまりは父・堀河天皇の弟になるので
このように呼んだということなのでしょう。
自らの血筋を継承させていくことに全勢力を傾けたかに見える白河院。
鳥羽上皇が関白の藤原忠実とともに、
法皇の影響力から脱しようとしているのを見ると、
忠実を罷免、"わしの世"は継続されていきます。
摂関家など貴族たちへの荘園整理令、
あらゆる任官、叙位には最大の影響力を発揮し、
それが平氏、源氏たち武士の力を増大させることにもなりました。
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
意のままにならないものを3つ挙げていた白河法皇でしたが、
もう一つだけ、逆らえないものがありました。
1129年、77歳で崩御。
当時の人としては大変な長寿で、
彼の院政43年間にも及びました。
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