平将門
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11595320173.html
に続く
日本の夏、怨霊の夏
は同じく日本三大怨霊から菅原道真公。
神様としても崇められていますが、
怨霊としても恐れられていました。
生年は845年と明らかなようですが、
生地は現在の京都、奈良、滋賀、島根など、
京都だけでも道真生誕の地は複数あるようで、
全く定かではありません。
幼少期より文章力があり、詩や歌に才能を発揮していました。
時は藤原氏が権勢を振るう平安時代でしたけれど、
宇多天皇は道真に要職を歴任させて、
藤原氏に対抗する力として利用しようとしました。
醍醐天皇の代になっても彼は昇進し続け、
右大臣にまで登り詰め
いわゆる行政改革を行うようになります。
特に中央集権制を目標とする彼の方針は、
藤原氏をはじめ貴族たちの反感を買います。
道真は娘を宇多上皇第三皇子斉世親王に嫁がせていましたが、
道真がそれを利用して皇位を簒奪しようとしていると
左大臣・藤原時平に讒言され、
その結果、彼は降格の上、大宰府に左遷されてしまいました。
以上がだいたいのお話。
以下が番組からの内容です。
道真は上司に「○○されたけど○○○○!」
と疑われた
「菅家文草」より。
元慶六年の終わり、
大納言の藤原さんを中傷する匿名の詩が世に出た。
この詩のできばえが並ではないので、
大納言は、作者は博士である私、
道真でないかと疑った。
私は恥ずかしく思う。
これが私の運命なのか…、天の定めか…
(以下漢詩)
僕は疑われるのが嫌なんじゃない
人を欺くための「疑い」が嫌なんだ!
つまらんヤツが多くいいヤツが少ないこの世界
悩み事が起こるのも無理はない(以下32行続く)
道真33歳の頃のお話。
彼は文章博士(もんじょうはかせ)の職にあるので、
文中、「博士」となっています。
学者の中でも特に教えることの出来るレベルの高い職です。
ここであえて「博士」とし、
また、これを書き残すこと自体が
少なからず自分の能力についての自慢…、
の意味のあるのではないかというのは、
番組の「こはにわ先生」の見解です。
以上、
道真は上司に「怪文書で中傷されたけど
文章が上手すぎる! 犯人キミやろ!」と疑われた
でした。
ところで、全国的に「淡路」といえば淡路島のことですが、
大阪にも淡路という地名があります。
淀川北岸、新大阪の東なんですけれど、
ここに菅原道真にまつわる逸話が残されています。
なぜ、そこは淡路という地名なのか。
左遷されて大宰府へと向かう途中、
淀川の中州に上陸します。
道真曰く、
ここが淡路島か!
などと。
当時、大阪の淡路は中州だったんですね。
要するにコロンブスがアメリカ大陸を
インドだと勘違いしたのと同じような話ではあるんですが、
この道真の場合、西への道中、
無闇矢鱈に淀川沿いを寄り道していたりします。
つまり彼は大宰府には行きたくないわけで、
ダラダラしつつそんなはずはないのに
ここが淡路島か!
みたいなことを言ってみたりしていたのではないか、
とも考えることが出来ます。
なお、近くに菅原という地名も。
あまりにもタラタラ移動していたので、
道中の立ち寄り先いたるところに道真ゆかりの地があり、
天満宮に道真が祀られています。
菅原道真は○○のでお腹の上にも○○を載せていた
でも結局○○!
「菅家後集」より。
左遷された旅人は、ひどく思いわずらう。
思いは痛みとなって、胸と腸にあつまる。
起き上がり一杯の茶を飲むと、今度は胃がツライ。
石を焼いて胃を温めるが、この治療法に効果はない。
結局、酒を無理してあおった。
「旅人」とは道真自身のことです。
なぜ自身をそのように書いているかについては
「懐石料理」の語源と関わりがあります。
語源の説の一つに、中国の故事で
ある僧は旅人をもてなしたいと考えましたが、
食べ物がないため、しかたなく石を温めて
懐に入れ空腹を紛らわせてもらおうとした、
というお話。
道真はそれを踏まえて、自らを「旅人」と表現し、
自身の境遇を嘆いてみせています。
これがいずれ都にも伝わり、
赦されて帰京の期待を込めましたが、
それも叶わず大宰府にて亡くなっています。
以上、
菅原道真は胃が痛いのでお腹の上にも温めた石を載せていた
でも結局やけ酒!
道真といえば、怨霊伝説が有名ですが、
彼に祟られて死んだとされる人たちを少し。
903年に無念を抱えて大宰府にて亡くなった道真。
906年 藤原定国 40歳で急死
彼が醍醐天皇に奏上したことが左遷のきっかけでした。
道真の降格、左遷を知った宇多上皇は
醍醐天皇の元へ事情説明に駆けつけようとしますが、
それを阻止したのが藤原菅根。
彼は道真の推挙で文章博士にもなった人物ですが、
恩を仇で返すが如く定国の奏上にも加わり、
そして、道真が赦される最後の機会も奪いました。
908年 藤原菅根 落雷で死亡
道真左遷を決定づけた讒訴の主、
909年 藤原時平、道真の怨霊がヘビとなり耳から出て狂い死に
これもまた道真を追い落とした張本人の一人であり、
道真の後任として右大臣となった彼の受難は狩りに出ていた時でした。
913年 騎乗のまま底なし沼にはまり行方不明
醍醐天皇の皇子で道真の娘婿のライバル
923年 保明親王21歳で急死
その第一王子、
925年 慶頼王5歳で死亡
といったところ。
これらは特定の人物の受難ですが、
京周辺では天変地異が続き、
干魃などの影響で飢饉が起こります。
923年の段階で、朝廷は道真を右大臣に戻しています。
そして、道真降格、左遷の詔勅を記したものを焼いて
災厄から逃れようとしますが、
風に煽られて大火事となり、
役人や僧侶が多数亡くなっています。
930年 朝議中の清涼殿を雷が直撃 大納言・藤原清貫即死
彼も道真の左遷に関わった人物です。
この出来事に醍醐天皇も恐れて寛明親王に譲位しますが、
その直後に崩御しています。
道真が最も憎むとすれば藤原時平なんでしょうけれど、
面白いことに彼の弟の忠平への祟りはなかったもようです。
時平・忠平兄弟は不仲で、
忠平は道真とも親交があったので、
大丈夫だったんだとか。
ちなみに、日本三大怨霊の一人で先週の平将門は、
この忠平に仕えていました。
日本三大怨霊が妙なところで繋がります。
菅原道真の怨霊を逃れるために
○○しすぎて○○した人もいる
「大鏡」より。
道真は大宰府で五十九歳で死にました。
その七年後、ライバルの藤原時平も死に、
さらにその後、時平の長男・八条大将の保忠も死にました。
大将・保忠は病になった時
「これは道真の怨霊のせいだ」と疑い、
いろいろな祈祷をしましたが、
ある時、枕元でお経を唱えていた祈祷師が
「いわゆるクビラの大将!」と声を張り上げたところ保忠は
「えっ?…クビ?…大将?…ひええ、私のクビが縊られる~!」
と勘違いし、ヒビってそのまま死んでしまいました。
クビラの大将は宮毘羅、金比羅さんですね。
祈祷の時にそんな言葉が出たんでしょうね。
保忠はそれを「首」や「くびられる」と聞いてしまい、
恐怖のあまりに死んでしまったというお話でした。
以上、
菅原道真の怨霊を逃れるために祈祷してもらったが
敏感に反応しすぎて死亡した人もいる
でした。
先週の平将門もそうですが、
世の中が藤原氏のみでまわっている時代で、
彼らに政争で敗れた人たちは多く、
当然、藤原氏に対する恨みも募っていたことでしょう。
藤原氏への印象を悪くするという意味でも、
これらの怨霊伝説は生まれ広まっていったのかもしれませんね。
なお、大阪などの天神祭は道真の命日にちなんだお祭り。
今夜は道真公の怨霊伝説については、
余計な事をたくさんお書きしました。
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コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~ 菅原道真 -日本の夏、怨霊の夏-
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