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コヤブ歴史堂~にゃんたの(秘)ファイル~「徳川秀忠」+ラジオ歴史堂

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関係ないんですが、
西田敏行さんが正月2日の恒例長時間時代劇に主演されるそうで、
タイトルが「影武者徳川家康」だそうです。
ネット上には、誰が作ったのか
以前からこういうジョークがありまして、

1180 西田敏行、父と共に源頼朝の挙兵に加わり、山木館を襲撃
1561 西田敏行、武田信玄に啄木鳥戦法を献策するも謙信に見抜かれ討ち死に
1584 西田敏行、西田敏行に小牧長久手の戦いで敗れる
1598 西田敏行死去。遺児は後に西田敏行に滅ぼされる
1600 西田敏行、真田昌幸に進軍を阻まれ西田敏行の叱責を受ける
同年 西田敏行、石田三成を関ヶ原に破る
1603 西田敏行、幕府を開き初代将軍になる
1605 西田敏行、西田敏行に将軍職を譲り、後に駿府城に移る
1614 西田敏行が西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつけ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける
1716 西田敏行、八代将軍になる
1745 西田敏行、徳川家重に将軍職を譲り、江戸城西の丸に移る
1860 西田敏行、会津藩の家老となる
1867 西田敏行、西田敏行に命じられて江戸薩摩藩邸を本拠として江戸市内を混乱させ、薩摩藩邸焼討事件を起こさせる
1868 薩摩藩の西田敏行らと長州藩の西田敏行らが協力して幕府を倒す
1869 西田敏行、五稜郭の戦いで新政府軍に敗れる
1877 西南の役で、長州閥西田敏行総指揮の官軍に西田敏行軍は鎮圧され、城山で自刃
1883 西田敏行、共立学校の初代校長となる
1904 西田敏行、日銀副総裁として日露戦争の戦費を調達する


要するに、西田さんがこれだけたくさんの役を
こなしてこられたということなんですね。
この年表にありますように、西田敏行さんも演じられた
徳川幕府第二代将軍・徳川秀忠は、
父の家康はもちろん、
正室のお江(お江与)まで大河ドラマの主人公になっているものの、
それに比べて秀忠自身は影が薄い存在です。
唯一西田さんの「葵 徳川三代」があるものの、
父と子合わせて3代のお話でした。
(家光もドラマの主人公には何度もなっています)
今回はのコヤブ歴史堂では、そんな秀忠が主人公。
彼はどういう人物だったのでしょうか?







秀忠の部屋にいつもだった

「名将言行録」より

秀忠さんは小さい頃から、
「徳」の量が尋常じゃありません。
13歳の時、家来に本を読み聞かせてもらっていたとき、
突然、暴れ牛が家に乱入!
障子や戸をなぎ倒し、モーモー鳴きわめきました。
周りの人はめっちゃビックリし、慌てまくりましたが、
秀忠さんは、神の如く平然としていました。
いつも勉強するとき、秀忠さんは
貧乏ゆすりをする癖がありましたが、
その時も普段どおり、貧乏ゆすりをしていました。


どうやら、その時儒教の講義を受けていたようですね。
そこへ牛が飛び込んできたというんですが…、
この頃の徳川家は既に250万石の大大名で…?
まあ、あるのかもしれませんね。
ただ、この番組でもお馴染みの権力者についての記述では、
それを踏まえた上で文章を評価すべきなんですよね。
この場合も、秀忠の神童っぷりを書きたいがために、
このような暴れ牛の前にも泰然自若たる様を描写したと考えるべきで、
また、家康自身にも貧乏ゆすりの癖があったらしく、
つまりは、秀忠は家康の正統な後継者であると
言いたいのかもしれません。
ただ、そういう話が似合う人物ではあるのでしょう。

以上、

秀忠の部屋に牛が乱入して大暴れしたが
いつもと変わらず冷静だった


でした。



秀忠はを我慢し、で耐えた

「徳川実紀」より

家康が静岡で大御所生活をしていた頃、
秀忠が訪ねてきて、
2ヵ月余り静岡に滞在していた。
家康は阿茶の局を呼んで、
「若い秀忠が2ヵ月も1人でいたら、
夜はムラムラするやろう。
花ちゃんに菓子でも持たせて、
部屋の裏口からこっそり訪ねさせろ。
秀忠も色々まぎれるやろ」と言った。
花ちゃんは18歳でめっちゃ美人。
お局も「なるほど」と思い、
花ちゃんに美しくメイクさせ、秀忠にも
「今夜、家康様からの『お菓子』をお届けします」
と伝えた。
すると秀忠は、日暮れ前から正装して花ちゃんを出迎え、
上座に座らせて、
お菓子をうやうやしく受け取った。そして、
「確かにお父様からのお菓子を受け取りました。
早く帰りなさい」
と言い、彼女をわざわざ玄関まで送った。
花ちゃんは「なんか聞いてたんとちゃうけど、
秀忠さんが厳しく言うから、
何も言われへんわ…」と、
恥ずかしながら帰るしかなかった。
これを聞いた家康は、
「秀忠まじめすぎやろ! ワシにはできんわ…」
と仰った。


父親が息子の性欲のほうを心配した訳ですね。
それで女性に菓子を持たせて行かせてみれば、
息子はその女性を父からの使者として扱い、
父から使者であればまずは父同様に扱うのが礼儀で、
その菓子を受け取れば、その女性を帰してしまった…というお話。
秀忠といえば、恐妻家としてのイメージが定着していますが、
このエピソードを「浮気が出来ない」と捉えれば、
これも恐妻家としての彼を描写しているといえます。
(既に女中との子、保科正之は生まれているでしょうけれど)
また、秀忠は杓子定規、くそ真面目として有名ですから、
家康から「夜にお菓子を届ける」と聞けば、
単純に「父上から菓子がいただける」と解釈したのかもしれません。
そこで使者の来訪を迎えるために正装して待っていた、
ということなのでしょうか。

以上、

秀忠は家康から紹介された女を我慢し、
お菓子で耐えた


でした。



秀忠は過ぎてし、
家康に怒られた


「当代記」より

10月24日
秀忠は江戸を出発(家康が対陣中の大坂へ向かった)、
2日後に静岡の三島に着き、翌日に清水、次の日に掛川、
その次の日には吉田に着いた。
秀忠の軍は、お供の兵士を置き去りにするほどの大急ぎ。
急ぐあまり、武具や荷物もほとんど持っていなかった。
11月2日
秀忠は名古屋に到着、昨日、京都の家康から手紙が届いた。
「兵士の人数がしっかり揃ってこっち来るから意味あんのに、
道を急ぎ過ぎるがあまり、兵士が揃ってないなんて、
軽々しい事この上なしや! アホか」と。
そう言われた秀忠はしかし、3日に大垣(岐阜)に着き、
4日に柏原(滋賀)、5日佐和山、6日に永原に着いた。


これは上の

1614 西田敏行が西田敏行を「関ヶ原には遅すぎ、大坂には早すぎる!たわけうつけ間抜けーッ!」と怒鳴り付ける

の件、大坂冬の陣の時のこと。
杓子定規、言葉を額面通りに解釈する秀忠は、
家康が「ゆっくり」と言えばゆっくり、
「速やかに」と言えば現地に急行するような人だったのでしょう。
現場判断で取捨選択が苦手ということで、
彼には戦下手の評価がついています。
それにこの14年前の関ヶ原の時には、
秀忠の軍が戦場に着いた時には既に戦は終わっていて、
もしも、東軍が負けていたなら、
その遅刻が敗因となるところでした。
それに懲りたのか、この時は急ぎに急いで大坂へと向かっています。
岡崎あたりで家康は手紙で供回りすら置いてきぼりの行軍を叱責し、
徐行するように命じていますが、これには背いて、
急ぐのをやめませんでした。
そして家康に叱られることに。
よほど、名誉挽回を期していたのでしょうか。
ちなみに、清水の段階で秀忠が連れていたのは、
歩兵240人、騎馬34人ということで
これが戦力としてどの程度役に立つのか、
家康の怒りも尤もであろうかと思います。
冬の陣では豊臣方の勢力は十万、
徳川方は二十万ですから…

以上、

秀忠は戦に急ぎ過ぎて兵士を置き去りにし、
家康に怒られた


でした。



次は、ラジオ歴史堂から。

徳川秀忠は
気を遣いすぎた部下のせいで落馬した


秀忠が崖道を騎馬で進んでいる時に、
部下が転落を避けるために、
秀忠を山側へ山側へと誘導したところ、
秀忠は山側へ落馬したそうです。
落ちたのが崖側でなくてよかったとかそういう話でしょうか?



徳川秀忠は
感謝の気持ちを込め2万人の部下にお菓子を手渡した


ラジオの音声だけでは今ひとつよくわからなかったんですが、
徳川記念館のサイトで少しわかりました。

幕府の年中行事「嘉祥」
http://www.tokugawa.ne.jp/info_06.htm

昔「嘉祥(かじょう)」という行事があったらしく、
武家では最初に家康がこれを行ったという話もあります。
三方ヶ原で武田軍に大敗した家康でしたが、
武田軍の半数の戦力で挑んだことが織田信長に賞賛されることに。
この三方ヶ原の戦いの前には家臣の大久保藤五郎が
菓子を献上していて、

歴史上の人物と和菓子 -徳川家康と嘉祥-|株式会社 虎屋
http://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat02/dat02_014.html

それに因んで、代々徳川家当主は、
家臣たちに羊羹や饅頭を手渡していたようです。
秀忠の場合は2万人に手渡しだったらしく、
このイベントの後には数日間肩こりが酷かったと。
その後、家光以降は最初だけ手渡しで、
後は形式的に自ら菓子を取っていた、とのこと。
ちょっと勉強になりました。




徳川秀忠という人は、
乱世には向かない器だったのかもしれませんが、
父が築いたものを、
父の言いつけを頑なに謹厳実直な彼が守ることで、
徳川幕府を盤石なものにしたという
大きな戦のない治世の世にこそ生きる人柄だったのかもしれません。





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