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ビーバップ!ハイヒール「世界を相手に戦った知られざるSAMURAI」その2 -アイク-生原昭宏

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偉大なるパイオニア!世界を相手に戦った知られざるSAMURAI
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11728250942.html

こちらからの続きです。



生原昭宏

1937年福岡県香春町生まれ。
高校、大学と野球を続け、
卒業後の25歳の若さで亜細亜大学野球部監督に就任、
チームを1部リーグ昇格へと導きます。
彼は指導者としてさらなる高みを目指し、
1965年に単身渡米します。

日本人の大リーガーを

彼はそんな夢があったようです。
大リーグでコーチの職を探しますが、
そんなものは相手にされるはずはなく、
何でもいいから、この国の野球に触れたいという思いから、
無給でマイナーリーグのクラブハウスの雑用係になります。

英語も不充分、人種差別が彼を苦しめます。

お前がスパイクを洗うと打てなくなる

選手たちにそんなことも言われたそうです。
それでも、彼は自分の夢のために
どんな屈辱にも耐えました。

大リーグの全てを盗んでやる!

毎日4時に起床、誰よりも早く球場に入り、
仕事をこなす日々が続きます。
そうしながら、大リーグのハイレベルな野球に近づくべく、
選手たちの練習内容などのメモを怠りません。

彼が必死に働き続けて2年、
その姿がある人物の目に留まります。

あの日本人は非常によく働くし頭もいい

それが

ウォルター・オマリー

当時のロサンゼルス・ドジャースのオーナーでした。
彼は生原を息子で副社長のピーター・オマリーの補佐役に抜擢、

Ikuhara

から

IKU

「アイク」と親しまれるようになります。

日本人の大リーガーを

彼はその夢の第一歩として考えたのは、

日本の球団に本場の練習を体験して欲しい

というもの。
それを実現すべく、生原が最初にかけた電話の相手が
川上哲治監督でした。
当時は巨人は2連覇を果たし、
全盛期の王・長島を擁してV3を目指していた時。
川上監督はフロリダ・ベロビーチのドジャータウンで
キャンプを決行。
そこで選手や関係者が見たのは、
一切手を抜かず、自分を律しながらの本場の練習でした。
それに大いに刺激を受けた巨人軍は、
後にV9を達成することに。
逆に日本側から彼に連絡を取って
ベロビーチでのキャンプを行ったチームもあります。
連絡したのは、現在の楽天の監督、星野監督。
中日はここでキャンプを行いましたが、
その後、星野監督は一人の選手を生原に托して現地に残しています。
それが入団5年目の山本昌。
プロ入りはしたものの、
活躍出来ず、瀬戸際にいた彼は生原の指導を受け、
ルーキーリーグで大活躍しています。

その後も、日本の選手が直に
メジャーの野球に触れられる機会を与え続けていますが、
1988年日米ベースボールサミットに参加していた
一人のアマチュア選手に彼は注目しています。



新日鐵堺・野茂英雄。
独特の個性を放つ彼に、
誰よりも早く、日本人大リーガー誕生の可能性を感じていました。

1990年、野茂は近鉄バファローズに入団、
1995年、ロサンゼルス・ドジャース入団、
生原のドジャースです。



彼のトルネード投法が全米中を湧かせました。

生原の夢が叶ったのです。
しかし、彼はそれをその目で見ることはありませんでした。
その3年前、癌で亡くなっていたのです。
享年55。

当時のオーナー、ピーター・オマリーはこう言っています。

野茂をドジャースに導いたのは
アイクのおかげだ


日米野球界の架け橋としての貢献が讃えられ、
2002年、彼は野球殿堂入りを果たし、
現在、オマリー家代々の墓の隣に眠っているそうです。



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