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軍師官兵衛 第7話「決断のとき」 その背景 ~毛利両川・元就の三本の矢~

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第7話では、そのタイトルどおり、
播州の各領主たちが
織田、毛利のどちらにつくかの決断がメインでした。
武田信玄が病死し、織田信長は武田勝頼の軍を長篠で撃破、
信長包囲網が瓦解、
織田軍の矛先は西の毛利へと向けられることになります。

中国一帯を治める毛利と、
畿内までを手中にした織田に挟まれた播磨国の各領主には、
選択を間違えれば、滅亡にもなりかねない事態でありました。
小寺家は官兵衛の意見を受けて、
織田につくことを決めましたが、
実際は、少数派ではあったらしいものの、
家中で織田につくべきだと考えていたのは、
官兵衛一人ではなかったようですね。


さて、ドラマでは、織田信長側の描写は多いものの、
毛利家のほうの描写はあまりないので、
そんなお話をお書きします。

ただの国人であった毛利元就はその一代で
120万石もの所領を抱えるようになりました。
このように中国地方一帯を支配するに至るには、
息子たちを他家に養子として送り込んだ戦略があったからでした。
隆元、元春、隆景は元就の息子たち。
元就は隆元に毛利家を継がせますが、
元春を吉川家に、
隆景を小早川家に養子として送り込み、
そしてそれぞれが当主となります。
吉川家と小早川家はいわば毛利家の分家となってしまったんですが、
こうして元の血筋を絶えさせてしまった訳です。
元就が家督を隆元に譲る際に、
「三子教訓状」なる家訓を授けています。
いわゆる「三本の矢」で、
史実かどうかはともかくとて、
毛利家存続を第一義とし、毛利本家の隆元を、
弟の吉川元春、小早川隆景が守り支えよと訓じていたんですね。
この体制を吉川と小早川の川の字から
「毛利両川」と呼んでいます。



そして、1563年毛利本家の隆元が急死、
その子、輝元に跡を継がせました。
輝元、11歳の時です。
毛利元就の遺訓により、
輝元は、吉川元春と小早川隆景の補佐を受け…、
というものの、まだ子供の輝元ですから、
実際には両川を含めた周囲の大人たちが
政治や軍事を執り行っていたのでしょう。

1576年、織田信長に都を追われた足利義昭が
毛利を頼って落ちてきました。
毛利は織田と義昭の処遇について協議を重ねますが、
織田に敵対する石山本願寺に毛利が兵糧などを支援したことから、
織田と毛利は敵対することになりました。

この毛利輝元、後の関ヶ原の戦いの西軍・総大将です。
この毛利両川は関ヶ原直後まで続く訳ですが、
天下分け目の戦いの結果に、
毛利両川の体制が関わってくることになります。




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