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ビーバップ!ハイヒール 「古典で読み解く残酷なニッポン~『昔はよかった』なんてウソ~」 その3

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大塚ひかりさんが選ぶ古典の中の残酷話。
大塚ひかりさんといえば、産経新聞にも連載されていて、
古典のエロとグロのコラムなんですけれど、
昨日は「古今著聞集」から「コヤブ歴史堂」でも紹介されていた

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140701/wlf14070120510020-n1.htm

このエロ話がありました。
記事タイトルもアレですので、
リンクだけ掲載しておきます。



さて、こちらからの続きです。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11886176209.html
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11886176209.html



日本で初めて誕生したヒーローはヤマトタケルだとも言われます。
絶世の美男子であり、頭の切れる策略家、
草薙剣を振るえば敵うものはいません。
「古事記」などに登場する彼ですが、
その中で彼はどのような活躍をしたのでしょうか。

第12代景行天皇の子として生まれたオウス(小碓)。
景行天皇には后が多数いて、
80人以上の子を儲けていました。
オウスがまだ子供の髪をしていた頃、
美しい姉妹の噂を聞きつけた景行天皇は、
彼女らを娶ろうとオウスの兄のオホウス(大碓)に
連れてくるように命じます。
オホウスはその姉妹を気に入ったためそれに背き、、
自らの妻としてしまい、代わりの女を差し出してきました。
それからオホウスは天皇の前に姿を現しません。
そこで、天皇はオウスにオホウスの元まで行き、
「ねぎ教え諭して参れ」と命じます。
"ねぎ""ねぎす"はねぎらう、いたわるなどの意味です。

景行天皇はオウスに命じたものの、
五日経ってもオホウスは姿を現しません。
あらためてオウスに問うと、
既に諭したといいます。
では、なぜ自分の前に現れないのかと問うと、
オウスは言いつけのとおり、きっちり殺して参った」と答えます。
オウスは父の言葉を取り違えたのです。
父の怒りを恐れたオホウスは考え込んでいましたが、
厠に立ったところを待ち伏せしていたオウスに襲われ、
オウスは押し潰して手足をもぎ取り、
簀巻きにして投げ捨ててしまっていたのでした。

天皇はオウスの残虐性を危険視します。
彼はオウスに西の敵国二国の討伐を命じます。
彼にはわずな従者しか与えられていません。
それはは無理だろうという天皇の算段で、
そうすることで大和から彼を遠ざけ、
死んでくれるだろうという考えからでした。

まずは九州南部を支配し、
西国最強と言われるクマソタケル(熊襲建)兄弟を討とうと
オウスは考えました。
しかし、彼が向かったのは西ではなく、
東の伊勢で、叔母で斎王のヤマトヒメ(倭姫)を訪ね、
ここで女物の衣装を手に入れました。
あらためて西へと出発し、
クマソタケル兄弟の宴に美少女の姿で紛れ込みます。
兄弟に近づいた彼はまず兄を切り捨て、
弟に剣を突き立てました。
この頃の彼はヤマトヲグナと名乗っていましたが、
死の間際に兄弟の弟はその強さに感服し
自らの「タケル」の名を授け、
以後、彼はヤマトタケルと名乗るようになりました。
そして、ヤマトタケルとなった彼は、
クマソタケル兄弟を切り刻むのでした。

こうしてクマソタケル兄弟を討ったヤマトタケルは、
出雲の王、イヅモタケル(出雲建)を討つべく出雲に入ります。
ここでも彼は真正面からイヅモタケルに挑むつもりはありません。
彼はイヅモタケルと親交を結び、
警戒心を解いていきます。
充分に信用されたと思った頃、
イヅモタケルと水浴びに行き、
そこでそれぞれの太刀を取り替えようと提案します。
それを了承されると、
続けて太刀合わせをしないかと持ちかけます。
彼を信じているイヅモタケルは
ちょっとしたお遊びだと考えそれにも応じ、
まず、ヤマトタケルが太刀を抜いて構えました。
それに合わせてイヅモタケルも太刀を抜こうとしますが
太刀は抜けません。
太刀を交換しようとヤマトタケルが言い出したのは、
抜けない刀をイズモタケルに持たせるためなのでした。
なぜ剣が抜けないのかわからないイズモタケルを
ヤマトタケルは斬り殺し、
出雲平定を成し遂げたのでした。

これで父もお喜びになる、
これで大和に帰れると喜ぶヤマトタケル。
しかし、凱旋に驚いた景行天皇は
ヤマトタケルが大和に戻るやいなや、
東国十二国の討伐を命じました。
あまりの事に、父は自分に死ねと仰せかと嘆き、
伊勢でヤマトヒメにその事を話すと、
彼女はいざという時のために
草薙剣と「危急の時のため」として
一つの小さな袋を手渡しました。

東征へと向かうヤマトタケル。
尾張ではミヤヅヒメ(美夜受媛)と恋仲になりますが、
先を急ぐ身なので婚約だけしてさらに東へと進みます。
相模では欺されて野原で火に囲まれてしまいました。
叔母にもらった小袋を開けると、
そこには火打ち石が入っており、
草薙剣で草を払い、
自ら周囲の草に火をつけることで迎え火とし、
この危機を乗り越えました。
この故事からこの場所を焼遣(ヤキヅ)、
焼津になったといいます。

相模から上総へ。
しかし、ここでは海の神が怒り狂っており、
大波のため先へと進めません。
如何にしたものかと思案していると、
彼の妃のオトタチバナヒメ(弟橘媛)が進み出ました。
「海神よ、我が君の東征を護り賜え」
そう念じて彼女は海に身を投げました。
すると、嘘のように海は静まり、
ヤマトタケルは東進を再開し、
東国十二国平定を成し遂げました。
ヤマトタケルはオトタチバナの死を悼み、
足柄峠で「吾妻はや」と嘆きました。
以後、東の国を「あづま」と呼ぶようになります。

大和を目指して西へと向かうヤマトタケルは、
尾張でかねてより言い交わしていたミヤヅヒメを娶り、
彼女に草薙剣を預けたまま、
自分の力量に自信のある彼は
伊吹山の神と対決しようとします。
伊吹山で大きな白猪を見かけますが、
彼は神の使いなどに用はないと相手にしませんでした。
しかし、それは神の使いではなく、
伊吹山の神自身でした。
侮られたと怒る山の神は山に雹の嵐を呼び、
大量の雹を浴びたヤマトタケルは気を失ってしまいました。
やがて正気を取り戻したものの、
病を得た彼は大和への道を進もうとしますが、
伊勢の能褒野(のぼの)にて息絶えます。
力尽きた彼の脚は三重に折れ曲がっており、
それから、この地を三重と呼ぶようになったとか…

  やまとは
  国のまほろば
  たたなづく 青垣
  山ごもれる
  やまとし うるはし


故郷の美しさを称えたこの望郷歌が、
彼の最後の時に詠んだものとされています。


「古事記」だとこういう話になっています。
「日本書紀」だともっとマシな話ではあるんですけれど。
女装して、友達として信用させた上で相手を斬り殺すなど、
英雄にあるまじき行為ではあるんですが、
その謀のおかげで、多くの命を失わずに済んだ、
という考え方もあるかもしれません。
より物語的な古事記と、
より記録的な日本書紀の違いを楽しむ上でも、
古事記におけるヤマトタケルについての記述は面白いです。





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