こちらからの続きです。
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11889422309.html
見えないものが見える N線発見
1895年、ヴィルヘルム・レントゲンによるX線の発見は、
物理学史上最大の発見と言われ、
1901年、彼は第1回ノーベル物理学賞を受賞、
見えないものが見える、
それまで見ることが出来なかった人体の内部を見ることが出来ると
発見から100年以上過ぎた現在でもX線は、
医療現場などで通称「レントゲン写真」として使われ続けています。
そして1903年、フランスの物理学者ルネ・ブロンロ(ブロンドロ)は
未知の放射線を発見したと発表、
所属するナンシー大学に因みN線と命名、
N線は"アルミニウムのプリズム"で
確認出来る不可視光線だといいます。
この発見はX線と同等、あるいはそれ以上だと物理学界は騒然、
N線を観測したと名乗り出る研究者が続出、
その数、100人余り、論文数は300本以上を数えます。
"N線"発見から半年間でのことです。
元々N線は放電管を線源として放射されると発表されていましたが、
その後、熱せられた金属や植物の葉、
太陽からも観測されたとも発表されていきます。
フランス科学アカデミーはブロンロに「ルコント賞」を授与、
この前年にピエールとマリー・スクウォドフスカのキュリー夫妻が
ウランよりもはるかに強い放射能をもつラジウムを発見し、
夫人がその功績でノーベル物理学賞を受賞していて、
ブロンロのルコント賞受賞はそれを差し置いてのものとなりました。
研究者たちはこのN線の性質についても研究していましたが、
その一方で、どうしても再現出来ないという
研究者からの報告も出てきていました。
そんな研究者の一人、
アメリカの物理学者ロバート・ウィリアム・ウッドは
実際にこの目で見たいと、
ブロンロの研究室を訪ねて見学を願い出ます。
それを快く承諾したブロンロは、
特殊な"アルミニウムのプリズム"を用意、
計測器で目に見えないN線を計測して見せました。
ブロンロはその測定値を読み上げていきます。
ウッドは言いました。
「ブロンロ博士、N線を計測できるはずはないんです
なぜなら、そのプリズムは私の手の中にあったからです」
ウッドは手を開いて、
その手の中のプリズムをブロンロに見せました。
ブロンロはありもしないN線の計測値を読み上げていたのでした。
ウッドは「ネイチャー」に見解を発表します。
「期待通りのデータを求めていた科学者が
純粋な主観で現象を発見した」
ブロンロはN線の存在を信じていました。
疑われてこそ、真実は真実となります。
信じ続けるだけでは真実には辿り着けません。
彼はそれを忘れ、自分の実験結果を信じてしまったのです。
ウッドにN線は幻だったと判明した後も、
彼は自らの考えを曲げず、撤回しないまま81歳で亡くなっています。
発見直後、なぜ100人もの研究者がN線を観測できたのかについては、
当時のフランスの事情も絡んでいるのかもしれません。
追随する論文を発表した研究者の多くはフランス人でした。
当時フランスの科学界はドイツに大きく後れを取っていて、
国の名誉や威信のために論文を作成したのでしょうか。
病的科学という言葉があります。
実験結果などから作成される論文は
客観的事実に基づいて作成されるべきものですが、
そこに主観的な要因が絡んだり、
実験中のミスなどが見過ごされた末、
事実とは異なる内容が事実として報告されることがあります。
こういった「事実でない事柄についての科学」を
病的科学と呼んでいて、
「思い込み」を事実として捉え、
わずかな誤差なども自らの思い込みを肯定する材料にしていきます。
このN線のブロンロと彼の"発見"に追従した多くの研究者の報告は、
以後の科学の世界の教訓となっています。
まだ、続きます。
番組では社名などが伏せられていましたが、
これは今まさに捜査が進行中の事件、
次はノバルティスファーマのディオバン臨床データ捏造のお話です。
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11889422309.html
見えないものが見える N線発見
1895年、ヴィルヘルム・レントゲンによるX線の発見は、
物理学史上最大の発見と言われ、
1901年、彼は第1回ノーベル物理学賞を受賞、
見えないものが見える、
それまで見ることが出来なかった人体の内部を見ることが出来ると
発見から100年以上過ぎた現在でもX線は、
医療現場などで通称「レントゲン写真」として使われ続けています。
そして1903年、フランスの物理学者ルネ・ブロンロ(ブロンドロ)は
未知の放射線を発見したと発表、
所属するナンシー大学に因みN線と命名、
N線は"アルミニウムのプリズム"で
確認出来る不可視光線だといいます。
この発見はX線と同等、あるいはそれ以上だと物理学界は騒然、
N線を観測したと名乗り出る研究者が続出、
その数、100人余り、論文数は300本以上を数えます。
"N線"発見から半年間でのことです。
元々N線は放電管を線源として放射されると発表されていましたが、
その後、熱せられた金属や植物の葉、
太陽からも観測されたとも発表されていきます。
フランス科学アカデミーはブロンロに「ルコント賞」を授与、
この前年にピエールとマリー・スクウォドフスカのキュリー夫妻が
ウランよりもはるかに強い放射能をもつラジウムを発見し、
夫人がその功績でノーベル物理学賞を受賞していて、
ブロンロのルコント賞受賞はそれを差し置いてのものとなりました。
研究者たちはこのN線の性質についても研究していましたが、
その一方で、どうしても再現出来ないという
研究者からの報告も出てきていました。
そんな研究者の一人、
アメリカの物理学者ロバート・ウィリアム・ウッドは
実際にこの目で見たいと、
ブロンロの研究室を訪ねて見学を願い出ます。
それを快く承諾したブロンロは、
特殊な"アルミニウムのプリズム"を用意、
計測器で目に見えないN線を計測して見せました。
ブロンロはその測定値を読み上げていきます。
ウッドは言いました。
「ブロンロ博士、N線を計測できるはずはないんです
なぜなら、そのプリズムは私の手の中にあったからです」
ウッドは手を開いて、
その手の中のプリズムをブロンロに見せました。
ブロンロはありもしないN線の計測値を読み上げていたのでした。
ウッドは「ネイチャー」に見解を発表します。
「期待通りのデータを求めていた科学者が
純粋な主観で現象を発見した」
ブロンロはN線の存在を信じていました。
疑われてこそ、真実は真実となります。
信じ続けるだけでは真実には辿り着けません。
彼はそれを忘れ、自分の実験結果を信じてしまったのです。
ウッドにN線は幻だったと判明した後も、
彼は自らの考えを曲げず、撤回しないまま81歳で亡くなっています。
発見直後、なぜ100人もの研究者がN線を観測できたのかについては、
当時のフランスの事情も絡んでいるのかもしれません。
追随する論文を発表した研究者の多くはフランス人でした。
当時フランスの科学界はドイツに大きく後れを取っていて、
国の名誉や威信のために論文を作成したのでしょうか。
病的科学という言葉があります。
実験結果などから作成される論文は
客観的事実に基づいて作成されるべきものですが、
そこに主観的な要因が絡んだり、
実験中のミスなどが見過ごされた末、
事実とは異なる内容が事実として報告されることがあります。
こういった「事実でない事柄についての科学」を
病的科学と呼んでいて、
「思い込み」を事実として捉え、
わずかな誤差なども自らの思い込みを肯定する材料にしていきます。
このN線のブロンロと彼の"発見"に追従した多くの研究者の報告は、
以後の科学の世界の教訓となっています。
まだ、続きます。
番組では社名などが伏せられていましたが、
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