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「大坂夏の陣図屏風」は荒木村重の子・岩佐又兵衛によるものか?

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7日産経朝刊(大阪版)から
大阪城天守閣館長・北川央さんの連載コラムについて。

大阪城には何十回と行っているんですけれど、
その大阪城天守閣の1万収蔵品の中でも、
特に貴重なのが「大坂夏の陣図屏風」で、
これは国の重要文化財に指定されています。

この屏風は六曲一双で右隻で、徳川軍と豊臣軍の戦闘を、


(クリックで拡大)  


左隻では落城後の敗残兵、避難民、それに襲いかかる野党、
阿鼻叫喚の地獄絵図となっています。


(クリックで拡大)  




ここに描かれているのは
人物5071人、馬348頭、幟1387本、槍974本、弓119張、鉄砲158挺。
それが極めて精緻に描かれています。


この絵は福岡藩主黒田長政が製作を命じたもので、
命じられたのは黒田二十四騎にも数えられる
家老・黒田一成(かずしげ)でした。



本当にこういう座高よりも大きい兜を着けていたそうなんで、
しかも大兵肥満で身の丈六尺ですから、
戦場での威圧感は相当なものだったでしょう。
実際に多数の戦功上げています。
彼は黒田姓ではありますが、元々は加藤で、
父・加藤又左衛門は荒木村重の家臣でした。
村重は黒田官兵衛を有岡城の土牢に閉じ込めた張本人ですが、
又左衛門はその牢番を任されていて、
日々衰えていく官兵衛を励まし、
世話をしていたのが又左衛門だったとか。
囚われの身の官兵衛は彼に恩を感じていて、
「もしも生きて本国に戻れたならば、
又左衛門の男児を一人貰い受け、我が子同様に育てたい」と
官兵衛は約束、落城後にはそれを実行し、
長政の弟のようにして、一成は育てられました。

この一成が誰に屏風図を描かせたのかが問題です。
黒田家の「黒田家什宝故実」には、
「八郎兵衛」の名があり、
狩野派に「狩野八郎兵衛=元休」がいて、
また、他に江戸田町の絵師「久左衛門」が挙げられてもいますが、
誰が描いたのかはわからないままです。
一方、近年、岩佐又兵衛も有力視されているそうなんです。
岩佐又兵衛は江戸初期を代表する大和絵絵師で、
後の浮世絵の源流ともされる絵師、
その画風は「又兵衛風」と言われ、
この「大坂夏の陣図屏風」にはそれがよく現れているとされます。



この洛中洛外図(舟木本)も彼の筆だと言われています。


(クリックで拡大)  



(クリックで拡大)  



この岩佐又兵衛勝以(かつもち)という絵師は荒木村重の子です。
北川先生はだしの子としていますが、
実際には彼の母が誰なのかは不明で、
もしも岩佐姓が母方のものであれば、
池田氏のだしではないことになります。



刑場のこのシーンですね。
この子が岩佐又兵衛ということなんでしょうけれど、
計算しますと、この頃の彼は既に満2歳だったりします。

黒田長政が命じたのが、
土牢の官兵衛の命綱だった加藤又左衛門の子・黒田一成で
一成が大坂夏の陣の絵を描かせたのが、
黒田家の命運を絶とうとした荒木村重の子だったとすると、
それ以前の豊臣家家中での官兵衛と村重との関係も併せて、

軍師官兵衛 第23話「半兵衛の遺言」 その背景 ~有岡城落城から荒木村重のその後~
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11877423084.html

その人間関係はとても興味深いです。

最終回あたりに岩佐又兵衛が登場したりして…?
それにしては描写が少なすぎるかも。

大坂夏の陣図屏風の作者::産経新聞ファンクラブ「ウェーブ産経」大阪事務局
http://wave.sankei-kansai.com/2014/07/post-232.php





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