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鳥取市教育委員会の「かつ江さん」で注目される鳥取城の戦いとは ~軍師官兵衛外伝~

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昨夜お書きした鳥取城の戦いについて。
三木合戦では「三木の干殺し」と呼ばれた兵糧攻めがありましたが、
それよりも凄惨を極めたのがその後の鳥取城の戦い、
称して「鳥取の飢え(渇え/かつえ)殺し」。



このキャラクターが「かつ江さん」と名付けられているのは、
そういうことですね。

大河ドラマではこれを描くことなく通り過ぎるだけにしたのは、
その凄絶さと、その前に三木合戦の時にはほぼ不参加だった
主人公・官兵衛が、鳥取城攻めの時には軍略を担っていたはずで、
「人は生かしてこそ」と、
出来る限り殺さないという設定からズレるからかもしれません。
ただ、もしも有岡城の土牢以後、
人が変わったように甘さが消えたことの象徴としては、
その描写があっても面白かったかもしれません。

三木城攻略以後、西播もほぼ制圧出来た羽柴秀吉が次に目指したのが、
但馬、因幡方面でした。
1580年6月、城を囲まれた鳥取城主・山名豊国は籠城戦で応じますが、
3ヵ月ほどで彼が城を出て降服するという形で和議が結ばれています。
これを第一次鳥取城の戦いと呼びます。
しかし、この降服に不満を持つ者たちも多く、
そこへ毛利軍がやって来ます。
織田軍に対して徹底抗戦を訴えていた者たち、
特に森下道誉・中村春続らにより、
豊国の意に反して、今度は毛利軍に降伏してしまったのです。
こうして鳥取城は毛利軍が守ることとなり、
翌3月、その守将として吉川経家が入りました。
その際、自らの覚悟を示すために、
首桶を持参していたとされます。

こうして第二次鳥取城攻めが始まりました。
6月25日、再び姫路から因幡国へと向かう羽柴秀吉の軍でしたが、
彼はその前の秋から既に因幡において下準備をしています。
米の収穫期、元々不作だった上に、
収穫直後の穀物を秀吉の配下の者に、
相場の倍以上の価格で買いあさらせていたのです。
そのために、若狭から因幡へ商船を派遣していました。
城内の者の中には、備蓄米を売り飛ばす者までいたとか。
秀吉の腹は既に兵糧攻めだったのでした。
他に、兵糧攻めの下ごしらえとしては、
鳥取城の近隣の者たちを追い立てて、
城に入るように仕向けます。
こうして、城内の人口を増やしてもいました。

城を囲んだ秀吉はさらに周到でした。
鳥取城周辺に付城(攻城戦における相対する小城)を築いたのは、
織田軍としては、本願寺攻め、三木城戦でも同じですが、
今回は周辺に多数の商店まで建てています。
その中には遊郭も含まれていて、
この戦が長期戦になっても問題が起きないための備えだったのでしょう。

もちろん、毛利からの糧道は抑えていて、
そして、城内の備蓄米は少なく、
さらには城に多数の農民、町民があふれかえっていることから、
秀吉の狙いどおり、間もなく城内の食料は尽きてしまいました。
仕方なく、木の実、木の皮、雑草などを食べていましたが、
それも尽きるとウシやウマも殺して食料とします。
しかし、補給がない以上それも限りがありますので、
一か八か、城から出ようとする者も現れますが、
秀吉の軍の鉄砲で狙い撃ちに。
その死体は城内へと引き入れられますが、
それを葬るよりも、まずその死肉を争って食べ、
しかも、子は親を食し、弟は兄を食したとまで伝わります。

その間も城内に補給品を届けるべく、
毛利軍は多方面から接近を試みますが、
織田軍にことごとく潰され、
吉川経家は降服を決断。
自分の命と引き替えに、城内の他の者たちの助命を求めてきました。
しかし、秀吉は経家の奮戦を称え、彼の命ではなく、
森下道誉・中村春続の首を求めます。
この両名が再び鳥取が毛利方となった責任だというのです。
経家はそれを拒否、自刃の決意は変わらないと伝えてきました。
秀吉は織田信長に判断を仰ぎ、
信長は経家の死を認めました。
10月25日、城内の者は助けるという誓書が届くのを待って、
彼は腹を切りました。
ただ、森下と中村の二人についても、
本来の主・山名豊国に背いたこと、
因幡に戦乱をもたらしたことの罪を問われて、
その前日に切腹しています。
これで、100日余りの鳥取城の戦いは終結となりました。

吉川経家の首を検めた秀吉は、
「哀れなる義士かな」と嘆いて泣き、
安土へと送られた彼の首は
信長の命によって丁重に葬られたと伝わっています。




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