ここしばらく、表現の自由、言論の自由という言葉が注目されています。
アメリカでは金正恩暗殺計画を題材にしたコメディー映画「The Interview」が
脅迫により一時公開できなくなりましたが、
「表現の自由に対する未曾有の攻撃に屈した」との批判の高まりを受け、
一転、公開されました。
これに対し北朝鮮は
自分が暗殺される映画が作られたら、
オバマはその映画を見て笑えるのかと非難していました。
実際にオバマが殺される映画が作られてみないと、
オバマ政権の反応はわかりませんが、
表現の自由という価値観から考えれば、
オバマ暗殺の映画は公開されるべきなのでしょう。
ただ、それをお金を払って見る価値があるかどうかは別の話で
一般に、政治家、特に政権に対する風刺は許される傾向があるものの、
あの映画が風刺に当たるのかどうか、
見る気がない私には永遠にわからないことでしょう。
私はシャルリーではありません。
テロリストたちを強く非難しますが、
間違っても、あんな下劣な組織の名を
一時的にでも我が名とするつもりはありません。
フランスで起きたシャルリー・エブド本社の銃撃事件と、
その後の警官射殺、籠城事件などに対する抗議の合言葉が
Je suis Charlie(私はシャルリー)
です。
11日にはパリで160万人、フランス全土では400万人参加のデモがあり
この表現の自由の危機に
前代未聞の規模の人たちが立ち上がったと報じられました。
そして、このテロ事件の時に、各メディアでよく見られた言葉が
ペンは剣よりも強し
です。
カラシニコフにもペンは負けないのだ、と
マスコミはその気概を示しているのでしょう。
ペンは剣よりも強いのであるなら、
その強い力の行使には責任が伴っているはずで、
剣で人が殺せるなら、ペンでも人は殺せます。
雁屋哲が自身が書いた漫画のストーリーの中で、
福島県についてのデマを流し、
それが非難されると言論、表現の自由が損なわれていると、
逆に非難していました。
自身の責任などなかったかのように。
元朝日新聞記者植村隆が自身が関わった"従軍慰安婦"記事に対して、
捏造だと断じたメディアと個人に対し、
損害賠償などを求める訴訟を起こしました。
自らの記事により、当時の日本人の名誉を傷つけ、
そして、現在の私たちの名誉も傷つけていることを棚に上げて。
訴訟は等しく万民に与えられた権利ですから、
自由にすればよいとは思いますが、
その前に、海外メディア向けにああだこうだと反論しているだけではなく、
国内メディアの取材依頼に応じる責任が彼にはあり、
それが言論の自由を守るということなのだと思います。
斯様に、このような輩は与えられた権利のみを主張し、
その責任を果たしていません。
フランスの週刊新聞シャルリー・エブドはどうでしょう?
常に書きっ放し。それが事実なのかどうかなんて関係ないような事柄でも、
平気で漫画にしてきました。
その面白くも風刺でもない茶化しに
日本人もその被害に遭っています。
彼らはその嘘に対する責任を取る気などはありませんでした。
そういうものを「ペンの暴力」といいます。
自由だからといって何をしてもいいという訳ではありません。
私たちの自由は法律などにより、
一定の制限を受けています。
憎いからといって人を殺せば、
その裁きにより罰せられることとなるでしょう。
なぜ、言論界だけが無制限に自由だと言えるのでしょうか?
「ただのジョークじゃないか」
11日のデモの中で「あの紙面にも問題があったのではないか」と
1人の北アフリカ系移民が口にしたところ、
「ただのジョークじゃないか」と白人男性から
このような反論が返ってきたそうです。
シャルリー・エブドや彼らにとってはジョークでも、
そう感じない人たちも多いことを知らねばなりません。
最新号でもムハンマドに「Je suis Charlie」の文字を持たせています。
あまり大手メディアでは報じられませんが、
11日のデモまでのとは違い、
それまでは「私はシャルリー」一辺倒だったボードの中に、
「私はムスリム」などの文字が見られるようになったとか。
イスラム教徒としてそのテロを非難するということなのでしょうか。
そういう価値観には共感します。
あのテロリストたちが自称した組織名から、
シャルリー・エブドがなくても、
何かしらが標的になっていた可能性はあります。
だから、そこを切り離して考えるべきだと思います。
ペンの力は強力です。
人だって殺せるんです。
The pen is mightier than the sword
これは19世紀英国の初代リットン男爵が
戯曲の中で書いた言葉。
ルイ13世時代フランスの国政を司った
リシュリュー枢機卿の台詞として登場しています。
リシュリューは国家権力の頂点にある人、
つまり、自分には剣などよりも、
ペン1本さえあれば充分ということなのです。
世の中には信賞必罰ではなく必罰のみが必要だ
と言い切っていた彼にとって、
死刑執行命令書にサインするペンが
その力の象徴だということなのでしょう。
この言葉の本来の意味では、ペンは権力の象徴なのです。
後の「ペンは剣よりも強し」の意味とは真逆の考え方です。
現在、ペンの力そのものがそれこそ権力であり、
その権力の行使により大勢の人を傷つけ、
人を殺しうることを認識し、
その強大な力の用い方について、
その職にある方々には自戒に努めて頂きたいと願っています。