石清水八幡宮 -千年京の都の裏鬼門を守護する国家鎮護の社-
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この日の目的は石清水八幡宮とこの平等院。
石清水八幡宮の人出はあまり多くありませんでしたが、
平等院のほうはたくさんの人がいました。
それに、こちらには外国人も多かったですね。
私が小学生の頃、遠足で行った場所でもあり、
当時は十円硬貨の持参が求められていました。
現在でも使用されている十円硬貨の表面には鳳凰堂が、
そして、現行の壱万円紙幣には鳳凰堂中堂大棟の鳳凰像が描かれています。
宇治の地は平安貴族の別荘地でした。
「源氏物語」の末尾「宇治十帖」の舞台でもあります。
現在の平等院の場所は宇多天皇や藤原道長などが使用していましたが、
道長の子である頼道が寺院としたのが、平等院の始まりです。
当時の仏法の考え方では、釈迦の入滅から二千年で
仏の加護による秩序が失われると考えられていて、
これを末法思想といいますが、
実際、この頃には天災が続き、人々は不安に包まれていたといいます。
この末法の世が始まるとされたのが永承7年(1052年)で、
その年に頼道がこの地を寺院とします。
死の後に待ち受けるのは地獄であるものの、
この世で仏の教えに従い念仏を唱え、
その時に西方極楽浄土やその主たる阿弥陀如来の姿を心に描き続ければ、
浄土への往生と転生が得られると考えられ、
概念の中にある西方浄土と
阿弥陀如来を本尊とする寺院が多数建てられたそうです。
平等院はそんな寺の中の一つなのでしょう。
ただ、その後も多くの手が加えられてきた平等院ですから、
今、見られるこの寺に末法思想の影響だけを伺うことはできませんが、
現在、鳳凰堂と呼ばれている阿弥陀堂は、
その姿にこそ、意味があるというのは
当時と変わらないのでしょう。
鳳凰堂は一風変わった寝殿造にも見えますが、
寝殿造が南向きなのに対し、
鳳凰堂は東向き、
鳳凰堂を池の向こうに見る時、
私たちは西を向くことになります。
これらは西方極楽浄土の姿を模したもので、
この光景を心に置いて、
念仏を唱えよとしていたのでしょう。
ほぼ、鳳凰堂は見せることのみに特化しています。
鳳凰堂は中央の中堂と左右の翼廊、
そして、中堂背後の尾堂で構成されていますが、
二層構造の翼廊は廊下となっているものの、
人が立って歩けるような天井の高さはなく、
翼廊の曲がり角にある隅楼は3階建てになっているものの、
上に天井もなければ、上がる階段もないとのこと。
それ以前に、そもそも中堂と翼廊はつながっていません。
人が中に入って何かをするということを全く想定していないのです。
千年近い歴史もさることながら、
日本中の寺院でここまで見た目にこだわり、
意味を持たせた場所もないでしょう。
もちろん、中堂内部も凝りに凝った装飾となっており、
彩色といい、多数の雲中供養菩薩像といい、
敷地内の平等院ミュージアム鳳翔館の展示と合わせれば、
当時考えられていた極楽を知ることができます。
人が多かったとはいえ、
京都市中心部の清水寺などよりははるかに見やすくなっています。
私が行った時で中堂内部見学は1時間待ち。
ただ、その時間、他を見て回れますので、
待ち時間は気になりません。
京都にお立ち寄りの際には
こちらも検討してみてください。
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平等院鳳凰堂 -西方浄土を具象化し末法の世を救わんとする-
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