歴史を学校の授業で習うことはあるものの、
教科書で扱われているのは、
ぶつ切りのほんのわずかな期間であることが多く、
多くの人はその出来事の後について、
その人のその後の人生については知らないことばかりではないでしょうか。
「その時歴史は動いた」のは事実ではあっても、
「その後」にもその人は生き、
そして、生き続けるはずの人もいました。
歴史は常に動き、常に連続しています。
だからこそ、知らないことは無限に存在し、
そこが歴史を学ぶことの面白さではないかと思います。
今週の朝日放送「ビーバップ!ハイヒール」は
「その後、歴史は動いた」と題して、
歴史上の人物の「その後」について紹介されていました。
カシコブレーンはこの番組には7回目のご登場、
歴史に関する著作も多数、歴史研究家で多摩大学客員教授、
メディアでもおなじみの河合敦先生でした。
個人的にはこの一冊がとても勉強になりました。
今回の記事も番組内容を柱としていますが、
桜田門外の変について番組が割いたのは約5分間。
半分以上は余計な加筆です。
嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー率いる米艦隊が浦賀沖に出現、
そこから日米間で交渉が行われ、
安政5年(1858年)に日米修好通商条約が調印されました。
勅許もなしにこの外交条約を締結したとして、
攘夷派の水戸藩浪士などによる桜田門外の変により、
大老・井伊直弼が殺されました。
桜田門外の変は何度も映画やテレビドラマでも扱われましたので、
誰もが知っている事実ですが、
ここから先の出来事についてはあまり知られていないと思います。
桜田門外の変が起きたのは安政7年(1860年)3月3日。
水戸浪士らの襲撃は十数分間程度だったと考えられ、
直弼もその間に絶命しています。
つまり、直弼が亡くなったのは3月3日です。
しかし、現在の東京都世田谷区にある
井伊家の菩提寺・豪徳寺にある直弼の墓碑には
命日として「三月二十八日」と刻まれています。
この命日のズレは当時の情勢が影響しています。
井伊家の彦根藩では水戸藩への報復の声が上がっていました。
幕府としては、両藩が戦争状態になることを避けるために、
水戸藩への処罰を考えなくてはなりませんが、
ここまでに水戸藩は既に重い処分を受けており、
これ以上の処分となると、御家断絶を考えることとなります。
徳川御三家を取り潰すわけにもいかず、
取り潰したとしても、水戸藩士が黙っているはずはなく、
井伊家との戦争、
あるいは徳川将軍家とも事を構えることもありえます。
これを避けるために、公式には桜田門外の変の後も、
井伊直弼を生き続けていることにしました。
変では直弼の首が切り落とされていましたが、
井伊家により、胴体と縫合して接合、怪我を負ったことにしました。
これは老中・安藤信正らによる苦肉の策。
直弼は実質上の最高権力者であり、
その者が襲撃を受け、殺されたという事実は、
井伊家もその責を問われ取り潰しの危機を招きます。
また、直弼は後継を指名せずに亡くなっていたものの
幕府はその子・直憲への相続を許可、
それを回避させることで、井伊家の報復の声を収めています。
ただ、井伊直弼が死んだことは江戸内外の人々の知るところでした。
襲われた直弼の行列は江戸城への登城の時のもので、
当時、大名行列見物は庶民の楽しみでもありました。
桜田門の外には大勢の町人が行列を待ち構えていたのです。
そこに現れた行列と襲撃隊による出来事は、
衆人環視の状態で起きたことで、
銃撃などで瀕死となった直弼が駕籠から引きずり出され、
首を切り落とされるところを大勢の人が見ていたのです。
幕府の措置が茶番劇であることは江戸城内でもわかっていましたが、
それでも、江戸市中での戦を避ける必要があったのでした。
なお、この策を打った安藤政信は2年後の2月、
水戸藩浪士に襲撃され、
この坂下門外の変で彼は負傷だけで済んだものの、
老中職を罷免、隠居して蟄居を命じられ、
領地も6万7千石から4万石に減らされています。
この変の後、世間では桜田門外の時との違いから
「首はあるなどと供方自慢をし」という川柳が詠まれています。