ここのところ、20日の朝日放送「ビーバップ!ハイヒール」から、
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12212184499.html
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12213441552.html
アフターヒストリー その後 歴史が動いた
の内容を掘り下げてお書きしていますが、
ちょうど、BS日テレ27日の「片岡愛之助 の解明!歴史捜査」でも
アンコール放送として、
坂本龍馬、最後の夢といろは丸沈没事件の真相を追え!
として、このお話が取り上げられていましたので、
併せて、いつものように加筆しつつ記事化してみたいと思います。
歴史上の人物で、最も人気の高い人物の一人、坂本直柔(なおなり)。
通称は龍馬ですので、坂本龍馬の名前で認識されています。
日本人なら誰もが知る人物で、
薩長同盟を成立させたとして認識されているでしょう。
その後、彼は京の近江屋で暗殺されるわけですが、
当然、龍馬はここで生涯を終えるつもりなどなく、
まだまだ人生は続いているはずでした。
新しい時代の中で、彼は何をなそうとしていたのでしょうか。
これは函館にある坂本龍馬の銅像です。
国内の銅像では二宮尊徳の次に多いとされる龍馬像ですが、
彼は北海道に足を踏み入れたことはありません。
なぜ、この地に彼の銅像があるのでしょうか。
土佐藩を脱藩した龍馬には、
姉の千鶴の長男で高松太郎という甥がいました。
太郎は土佐勤王党に加わっていましたが、
龍馬の紹介により、龍馬と同じく幕臣の勝海舟の弟子となります。
彼には一つの計画がありました。
幕末には攘夷派など、
世の中に対して不満を抱えている連中があふれていました。
海舟は幕臣でありながら、
早い段階から幕府の崩壊を予見していた人物であり、
龍馬も後に薩長同盟を進めたぐらいですから、
徳川幕府に変わる政治機構を考えていたのでしょう。
国家体制が変われば、そこからあぶれてしまう者が出ることは必然で、
龍馬はその受け皿として、蝦夷地を考えていたようです。
現在の北海道の多くは未開拓で、
どの藩にも属していない土地ばかり。
そして、開港したばかりの函館には外国船が入ってきます。
この地を切り開き、新天地としようというのです。
しかし、元治元年(1864年)年7月、
京の池田屋に潜伏しクーデターを計画していた
長州や土佐などの尊王攘夷派を新撰組が襲撃、
いわゆる池田屋事件が起きます。
ここに龍馬蝦夷地開拓計画に関わっていた
神戸海軍操練所の塾生であった北添佶磨(きたぞえきつま)や
望月亀弥太が含まれていました。
これにより、操練所を設立した勝海舟の立場が悪くなり、
操練所は閉鎖、塾頭である龍馬も蝦夷地入りの計画を進めることは
師匠の立場をさらに失わせるものとして、
断念してしまいました。
その後、龍馬は太郎らと亀山社中を結成、
これを改組して海援隊とします。
慶応3年4月23日(1867年)、
海援隊は大洲藩から借り受けた蒸気スクリュー船「いろは丸」で
積み荷を長崎から大坂まで運ぶために瀬戸内海を航行、
その際、紀州藩の軍艦・明光丸と衝突、
いろは丸は沈没してしまいました。
龍馬は紀州藩を相手に賠償交渉に臨みます。
ただ、海難審判の基本から考えれば、
多くの過失はいろは丸側にあるはずで、
それを龍馬は「万国公法」なる国際法を持ち出し、
あたかも自身がそれに精通しているかのように思わせ、
事故の責任は明光丸側にあると認めさせます。
いろは丸の購入金額は3万両あまり、
さらに、龍馬はその積み荷については、
最新のミニエー銃400丁など3万5630両と金塊など4万7896両198文だと主張、
賠償金8万3526両198文を紀州藩が支払うことで話をまとめています。
この金額は現在の価値でいえば42億円相当(「歴史捜査」による試算)。
あまりにも法外な金額に紀州藩は事情に詳しいと思われる人物に仲立ちを依頼、
それが薩摩藩の五代友厚でした。
しかし、彼は大洲藩がいろは丸を購入する時に、
龍馬とともに藩に斡旋した人物で、いわば、龍馬側の人物。
紀州藩は龍馬のほとんど言い値を支払うことになりました。
なお、2006年の潜水調査では、
ミニエー銃400丁のような大量の銃火器の存在は確認されておらず、
おそらく、龍馬のはったりだったものと思われます。
いろは丸は龍馬に必要な船でした。
一度は諦めた蝦夷地開拓でしたが、
その思いは捨てきれなかったようで、
この前には購入した小型帆船ワイルウェフ号が台風により沈没しており、
明光丸との衝突でいろは丸も失われてしまいました。
紀州藩から巻き上げた金銭で、
新しい船を買い、蝦夷地開拓の資金とするつもりだったのでしょう。
この地を開拓し、港を築きさえすれば、
蝦夷地には昆布やニシン、そしてラッコの毛皮など、
無数の資産があります。
これより前に、龍馬は妻のお龍と薩摩旅行に出ていますが、
この時、お龍は「蝦夷の言葉」を勉強しています。
アイヌの言葉でしょうか。
薩摩藩は蝦夷の物産を日本海経由で買い付け、
大陸に売ろうとしており、
そのためのアイヌ語の資料が薩摩にあったようです。
小弟ハ ヱゾに渡らんとせし頃より 新国を開き候ハ積年ノ思ひ 一世の思ひ出ニ候間 何卒一人でなりともやり付申べく
長州藩士・印藤聿(いんどうのぼる)に宛てた手紙にある一文です。
龍馬はただ、蝦夷地を開拓しようとしていたわけではなく、
新しい国を打ち立てるという大望を抱いていたようです。
11月、金額は7万両となってしまいましたが、
長崎で紀州藩からの賠償金が支払われました。
しかし、龍馬がその大金を手にすることはありませんでした。
8日後の11月15日、京の醤油問屋・近江屋で陸援隊・中岡慎太郎らとともに、
斬殺されてしまったからです。
坂本龍馬の命はここで終わりますが、
彼にも「その後」があります。
龍馬は明治政府からの評価を受け、
明治4年(1871年)「坂本龍馬家」が立てられることになりました。
龍馬に跡継ぎはいません。
跡を継いだのは甥の高松太郎。
彼は坂本直と名を改め、
その後の坂本龍馬家は跡継ぎが絶えるなど
紆余曲折がありながらも、
現在は9代目の坂本登さんが当主となっています。
坂本登さんは
冒頭の動画の龍馬像がある北海道坂本龍馬記念館の顧問をされています。
その1代前、8代目の直行さんは画家として活動し、
北海道のお土産として有名な
帯広のお菓子メーカー・六花亭製菓の
この包装紙のデザインは彼のデザインとのことです。
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12212184499.html
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12213441552.html
アフターヒストリー その後 歴史が動いた
の内容を掘り下げてお書きしていますが、
ちょうど、BS日テレ27日の「片岡愛之助 の解明!歴史捜査」でも
アンコール放送として、
坂本龍馬、最後の夢といろは丸沈没事件の真相を追え!
として、このお話が取り上げられていましたので、
併せて、いつものように加筆しつつ記事化してみたいと思います。
(Wikipediaより)
歴史上の人物で、最も人気の高い人物の一人、坂本直柔(なおなり)。
通称は龍馬ですので、坂本龍馬の名前で認識されています。
日本人なら誰もが知る人物で、
薩長同盟を成立させたとして認識されているでしょう。
その後、彼は京の近江屋で暗殺されるわけですが、
当然、龍馬はここで生涯を終えるつもりなどなく、
まだまだ人生は続いているはずでした。
新しい時代の中で、彼は何をなそうとしていたのでしょうか。
これは函館にある坂本龍馬の銅像です。
国内の銅像では二宮尊徳の次に多いとされる龍馬像ですが、
彼は北海道に足を踏み入れたことはありません。
なぜ、この地に彼の銅像があるのでしょうか。
土佐藩を脱藩した龍馬には、
姉の千鶴の長男で高松太郎という甥がいました。
太郎は土佐勤王党に加わっていましたが、
龍馬の紹介により、龍馬と同じく幕臣の勝海舟の弟子となります。
彼には一つの計画がありました。
幕末には攘夷派など、
世の中に対して不満を抱えている連中があふれていました。
海舟は幕臣でありながら、
早い段階から幕府の崩壊を予見していた人物であり、
龍馬も後に薩長同盟を進めたぐらいですから、
徳川幕府に変わる政治機構を考えていたのでしょう。
国家体制が変われば、そこからあぶれてしまう者が出ることは必然で、
龍馬はその受け皿として、蝦夷地を考えていたようです。
現在の北海道の多くは未開拓で、
どの藩にも属していない土地ばかり。
そして、開港したばかりの函館には外国船が入ってきます。
この地を切り開き、新天地としようというのです。
しかし、元治元年(1864年)年7月、
京の池田屋に潜伏しクーデターを計画していた
長州や土佐などの尊王攘夷派を新撰組が襲撃、
いわゆる池田屋事件が起きます。
ここに龍馬蝦夷地開拓計画に関わっていた
神戸海軍操練所の塾生であった北添佶磨(きたぞえきつま)や
望月亀弥太が含まれていました。
これにより、操練所を設立した勝海舟の立場が悪くなり、
操練所は閉鎖、塾頭である龍馬も蝦夷地入りの計画を進めることは
師匠の立場をさらに失わせるものとして、
断念してしまいました。
その後、龍馬は太郎らと亀山社中を結成、
これを改組して海援隊とします。
慶応3年4月23日(1867年)、
海援隊は大洲藩から借り受けた蒸気スクリュー船「いろは丸」で
積み荷を長崎から大坂まで運ぶために瀬戸内海を航行、
その際、紀州藩の軍艦・明光丸と衝突、
いろは丸は沈没してしまいました。
龍馬は紀州藩を相手に賠償交渉に臨みます。
ただ、海難審判の基本から考えれば、
多くの過失はいろは丸側にあるはずで、
それを龍馬は「万国公法」なる国際法を持ち出し、
あたかも自身がそれに精通しているかのように思わせ、
事故の責任は明光丸側にあると認めさせます。
いろは丸の購入金額は3万両あまり、
さらに、龍馬はその積み荷については、
最新のミニエー銃400丁など3万5630両と金塊など4万7896両198文だと主張、
賠償金8万3526両198文を紀州藩が支払うことで話をまとめています。
この金額は現在の価値でいえば42億円相当(「歴史捜査」による試算)。
あまりにも法外な金額に紀州藩は事情に詳しいと思われる人物に仲立ちを依頼、
それが薩摩藩の五代友厚でした。
しかし、彼は大洲藩がいろは丸を購入する時に、
龍馬とともに藩に斡旋した人物で、いわば、龍馬側の人物。
紀州藩は龍馬のほとんど言い値を支払うことになりました。
なお、2006年の潜水調査では、
ミニエー銃400丁のような大量の銃火器の存在は確認されておらず、
おそらく、龍馬のはったりだったものと思われます。
いろは丸は龍馬に必要な船でした。
一度は諦めた蝦夷地開拓でしたが、
その思いは捨てきれなかったようで、
この前には購入した小型帆船ワイルウェフ号が台風により沈没しており、
明光丸との衝突でいろは丸も失われてしまいました。
紀州藩から巻き上げた金銭で、
新しい船を買い、蝦夷地開拓の資金とするつもりだったのでしょう。
この地を開拓し、港を築きさえすれば、
蝦夷地には昆布やニシン、そしてラッコの毛皮など、
無数の資産があります。
これより前に、龍馬は妻のお龍と薩摩旅行に出ていますが、
この時、お龍は「蝦夷の言葉」を勉強しています。
アイヌの言葉でしょうか。
薩摩藩は蝦夷の物産を日本海経由で買い付け、
大陸に売ろうとしており、
そのためのアイヌ語の資料が薩摩にあったようです。
小弟ハ ヱゾに渡らんとせし頃より 新国を開き候ハ積年ノ思ひ 一世の思ひ出ニ候間 何卒一人でなりともやり付申べく
長州藩士・印藤聿(いんどうのぼる)に宛てた手紙にある一文です。
龍馬はただ、蝦夷地を開拓しようとしていたわけではなく、
新しい国を打ち立てるという大望を抱いていたようです。
11月、金額は7万両となってしまいましたが、
長崎で紀州藩からの賠償金が支払われました。
しかし、龍馬がその大金を手にすることはありませんでした。
8日後の11月15日、京の醤油問屋・近江屋で陸援隊・中岡慎太郎らとともに、
斬殺されてしまったからです。
坂本龍馬の命はここで終わりますが、
彼にも「その後」があります。
龍馬は明治政府からの評価を受け、
明治4年(1871年)「坂本龍馬家」が立てられることになりました。
龍馬に跡継ぎはいません。
跡を継いだのは甥の高松太郎。
(Wikipediaより)
彼は坂本直と名を改め、
その後の坂本龍馬家は跡継ぎが絶えるなど
紆余曲折がありながらも、
現在は9代目の坂本登さんが当主となっています。
坂本登さんは
冒頭の動画の龍馬像がある北海道坂本龍馬記念館の顧問をされています。
その1代前、8代目の直行さんは画家として活動し、
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