前回の番組は
「言葉を知れば世界が分かる!?翻訳できない世界の言葉」で、
日本語にはない世界の言葉が紹介されていました。
たとえば、フィンランド語には
PORONKUSEMA
「ポロンクセマ」のように発音する言葉があり、
この言葉の意味が
「トナカイが休憩なしで移動できる距離」のことだそうです。
これを一語で表す単語があるんですね。
ここで言う休憩とはトナカイの小便休憩のこと。
トナカイは移動しながらの放尿ができないらしく、
時折、そのための休憩が必要ですが、
短い距離なら、それも不要ということで、
トナカイを移動手段として用いていた地域ならではの言葉です。
その他、ハワイ語の
AKIHI(アキヒ)
は「誰かに道を教えてもらって歩き始めた途端、
教わったばかりの方向を忘れたこと」などなど。
この種の話がたくさんあり、
なかなか文字にしづらいものも多かったため、
ご興味がございましたら、
この時のカシコブレーン内貴麻美さんが編集者として手がけられた
をご覧ください。
いずれ私も読みたいと思います。
さて、これも面白かった前々回の番組は
本当は怖い日本の風習 謎多き迷信の正体
で、カシコブレーンは
駒沢女子大学人文学部日本文化学科の千葉公慈教授。
お名前を伺ってもスーツ姿のお姿からも気づかなかったんですが、
お声とお話ぶりで気づきました。
「ぶっちゃけ寺」などでもお見かけする曹洞宗宝林寺ご住職ですね。
北枕
頭を北にして眠ることをいいますが、
私はここ10年ぐらい北枕で寝ています。
特に気にしないということもあるんですが、
それは、これが釈迦の入滅の時、頭が北向きで、
その後、亡くなったばかりの故人を
極楽に行けるようにと北向きにしたからで、
別に縁起がいいとか悪いとかいう話ではないからなんですね。
死者と同じようにすることが不吉だと感じた人がいたのでしょう。
着物の左前、靴下を履いたまま眠ることを不吉とするのも、
同じ理由です。
三人で写真を撮ると真ん中の人は早死にする
幕末、日本に写真機が入ってきた時、
日本人は写真を恐れたといいます。
魂が吸い取られるからという理由でした。
古来、日本では魂は万物に宿るとされ、
特に人形のような人の形をしたもの、
人の姿を描いた絵には魂が移りやすいと考えられたとか。
江戸時代後期に大成した浮世絵などは
およそ、写実的ではない肖像画だったりしますが、
写実的にしなかったのは、そういう一面もあります。
私が幽霊画のほうに写実性を感じるものが多いと感じていたのは
そういう意味もあるのかもしれません。
絵画でいえば、元々日本では
生きている特定の誰かを絵にすることはありませんでした。
そっくりな絵は不吉とされ、
早死にすると言われていました。
だから、日本で肖像画といえば、
その人が亡くなってから描かれるものでした。
それがやがて生きている人も絵にするようになりましたが、
似せないことで、不吉なものにはしませんでした。
ただ、浮世絵などが写実的でないのは
それだけが理由ではないと思います。
日本の絵画は中国の影響を強く受けていて、
中国では写実よりも、
目に見えない真実が描かれたものを優れた絵だとしてきましたから。
番組に戻りまして、写真の真ん中の人が早死にするというのは、
3人の人が横に並べば、
礼儀として年長者が中央に立ちます。
真ん中の人が先に死ぬのはおかしなことでもなんでもありません。
渡し箸
迷信を超えて、和食のマナーでは禁忌とされています。
千葉先生によれば、これは
「彼(は)の岸と此(し)の岸」で箸、彼岸と此岸、
すなわち、箸であの世とこの世を結んでしまうからとのこと。
鼻緒が切れると縁起が悪い
下駄や草履などを履かなくなり、
靴紐もそうは切れないため忘れられつつある迷信ですが、
これが不吉だとされてきたのも、
北枕や左前と同様の理由があります。
かつて日本では誰かが亡くなると、
葬列を組んで野辺送りが行われました。
大勢の人が火葬場や墓場まで見送る訳ですが、
埋葬などが済むと、
参列者はそこまでに履いてきた草鞋を墓地に捨てる習慣がありました。
その時、鼻緒を切ることを忘れてはいけません。
故人がその草鞋を履いて戻って来ないように。
とかく、葬儀やその前後での風習は、
何かと不吉な行為とされることが多いようです。
烏が鳴くと死者が出る
西洋などでも墓に花を供えることはありますが、
あまり食べ物を供えることはありません。
日本人が墓前に食べ物を供えるのは、
故人があの世で飢えないようにするため。
しかし、烏にとっては格好の餌場で、
特に埋葬が行われた時には大量のご馳走が得られます。
よって、人の死と烏が結びついたという訳なのでした。
夜に口笛を吹くと蛇が出る
蛇ではなく、幽霊が出るという言い伝えもあります。
柳田国男の「遠野物語」にも夜中の口笛の話がありました。
人の体内には魂があると考えられてきましたが、
その魂に形はなく、空気や風のようなものだと考えられてきました。
口笛は空気を吹き出し音を出します。
これは霊魂や精霊に通じる行為でもありました。
宗派によっては儀式で口笛を吹くこともあり、
夜というあの世とこの世の境界で口笛を吹くことは、
霊的な何者かを呼び寄せてしまうと考えられたのでしょう。
口から魂が出るという話では、
くしゃみは寿命を縮めるものとされていて、
だからくしゃみをしても今のは
「くしゃみをしたのではなく休息命(くっさめ)」
であるとしたのでした。
先生によれば、扇子や団扇は風を起こし煽ぐものではなく、
口から魂が出てしまわないようにするものだとのことです。
夜中に爪を切ると親の死に目にあえない
これも由来は諸説あり、
ただ単に、昔は明るい照明がなく、
暗い中での爪切りは危険なためというものもあります。
昔は和鋏、握り鋏で爪を切っていましたので、
その危険から戒めとして、
このような言い伝えになったというもの。
千葉先生はこの迷信を「尖った物」の神秘性で説明されます。
日本に限らず、尖った物の先端に
霊的な力が宿るという考え方は珍しくありません。
人体で最も尖っているのが指先、その爪で、
さらに爪は生涯伸び続けるものであるため、
生命力の象徴ともされてきました。
日本書紀には素戔嗚尊に罪の償いとして、
手足の爪を抜いたという記述があります。
その後の部分では、
爪を粗末にする者は村から追放とあります。
村から追放された人は、
当然、親の死に目にもあえません。
古来、呪術では呪い殺したい相手の爪を燃やしていました。
そして、上でお書きしたように、
夜は暗いために爪を切る時には
火の側に行かなくてはなりません。
そんなところで爪を切ると、
爪が日の中に入ってしまうこともあるでしょう。
そんな時、周囲には独特の匂いが立ちこめます。
これは火葬の時の匂いと同じ。
日本人が最も嫌う匂いなのでした。
山の中で西瓜を見ても振り返るな
この言い伝え自体、先生から初めて伺ったものですが、
こういうものがあるそうです。
昔の山は今よりもずっと危険な場所でした。
道が整備されておらず、
転落死も多かったことでしょう。
そういう険しい場所だからこそ、
修験者はそこで修行を行ってきたわけですが、
もしも、視野に丸くて中が赤い物を見かけても、
凝視しようなどと考えてはならず、
それは、それが西瓜ではなく
割れた人間の頭なのかもしれないという戒めだそうです。
振り返ったり、そこに近寄ったりすることで、
彷徨う霊に連れ去られるかもしれません。
…続けるような気がします。