Quantcast
Channel: テレビ番組 時事ネタなど書いていきます。はい。
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

おんな城主・直虎「完」(2) 関ヶ原での抜け駆けに見える井伊直政の忠義

$
0
0

https://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-12337576680.html

続いております。


関ヶ原の戦いで抜け駆けをしてまで
一番槍を求めたとされる井伊直政。
一番槍は手柄ではありますが、
軍紀違反を犯しており
切腹を命じられる可能性もあります。

あの日の朝、開戦前の最前線に出ようとした直政隊に
福島隊から声が掛けられます。
先陣は福島正則が務めることに決まっていました。
先陣は我々であるから下がれという念押しです。
直政隊は敵方の視察であるから問題ないとして素通り。
しかし、その先で戦を始めてしまいました。

記録には敵情視察を行っていたところ
「偶発的衝突」があり
やむなく応戦したとなっていて
公式には抜け駆けとはなっていません。

ただ、直政には抜け駆けをするだけの理由がありました。
徳川家家臣らの到着が遅れていたのです。
あの戦は元々、
家康が会津の上杉を討伐するとして大坂を出たものでした。
そして、石田三成が家康断罪の動きを見せ、
家康はその対応に当たるわけですが
まずは福島正則や井伊直政らを先発、西上させ、
遅れて進軍する家康の露払いのような形で
東海道沿いの城などの拠点を攻略していきます。
一方、秀忠には中山道を進ませ
まずは上田の真田昌幸を攻めさせます。

その行程には相応の時間が必要だと考えられていて
家康自身も江戸に留まっていました。
ところが正則らが大活躍し、
どんどん西に進んでいきます。
岐阜城は天然の要害にあるため攻略に手間取るかと思いきや
わずか1日で陥落してしまいました。

家康も進軍の速さに急ぎ江戸を進発していましたが
先発隊が西軍に接触するタイミングには間に合わないかもしれません。
家康は、自身が東軍西軍の本戦の場にいる必要がありました。
この戦は後に天下分け目の戦いなどといわれますが
この時点では豊臣恩顧の大名たちの派閥争いなのです。
戦後、豊臣政権の中で発言力を得られなければ
東軍が勝ったとしても家康には意味がありません。
その頃、家康の名代になりうる秀忠は上田城攻略に手間取り失敗、
間に合いそうにありません。

結果、家康は間に合いましたが
西軍と対峙する東軍の軍容を見れば
関ヶ原に来ている徳川家中の者は本多忠勝などごくわずか。
中でも最も前に出られる位置に布陣していたのが井伊直政隊でした。
このまま戦が始まり、
東軍が勝った場合、徳川家康以外の声が
豊臣政権の中で大きくなってしまいます。

直政が命を省みず、抜け駆けしたとすれば
戦後の主の立場を守るためだったはずです。
抜け駆けは大罪ですが、
抜け駆けされた将にとっても恥辱となります。
しかし、戦後、福島正則側から不服申し立てはなかったようで
それも、記録が「偶発的衝突」であるからなのでしょう。
それは正則の顔を立てる意味もあったのかもしれません。

戦後、直政は咎めを受けるどころか
石田三成が治めていた佐和山18万石を任されます。
近江の地は京の都に近く、
いざという時には天皇と朝廷を守ることになります。
また、西国の勢力の抑えにもなります。
徳川幕府を守る最重要拠点の一つといえるでしょう。

しかし、直政は関ヶ原で鉄砲傷を負っていました。
西軍として参陣していた島津軍は
撤退の際、あろうことか退却路を真っ正面としました。
徳川軍本隊真っ只中を突き抜けようとします。
大将の島津義弘を守るため
殿軍の小隊がその場に残り盾となります。
その兵たちが倒れれば次の小隊が盾となります。
その間に大将を退却させようという「捨て奸(すてがまり)」です。
そんな捨て身の敵兵たちの間を
味方の兵たちが追いつけぬほどの速度で直政が単騎で駆けていきます。
義弘を目前に捉えた時、
直政は右肘、または右腕のどこかに銃弾を浴びます。

戦後、直政は西国大名を中心に戦後処理などに負われています。
また、西軍の将兵の助命も行っており
その中には真田昌幸・信繁親子も含まれています。

ただ、とても激務をこなせる状態ではなかったのかもしれません。
鉄砲傷が癒えるどころか悪化しており
一説には、いつも部隊の前面に出て戦っていた直政は
体中傷だらけで、関ヶ原以前に受けた刀傷、矢傷が元で
既に敗血症、破傷風などにかかっていたのではないかともいいます。

井伊直政は石田三成の居城だったからか
佐和山城をあまり好まなかったとみられ
佐和山藩立藩後間もなく、
琵琶湖岸の磯山に新しい城の建設を計画しました。
しかし、着工前に亡くなってしまいます。

享年41。
直政が望んだ彦根城が完成するのは
死後、20年後のこと。
さらに10年後、加増を繰り返した井伊家は35万石の大大名に。
これは徳川譜代大名の中で最も大きい石高となっていました。

その後、関ヶ原までに功を上げた数々の有力大名が転封になる中、
井伊家は一度も国替えされることはなく
井伊家からは幕府非常職の大老を何度も排出。
そして、江戸時代後期には井伊直弼が当主となります。



Viewing all articles
Browse latest Browse all 2031

Trending Articles