年始に「今年は~しよう」というようなことは
あまり考えない質なんですが
今年は珍しくいろいろ考えまして
一つは囲碁を打てるようになりたいということと
もう一つは、
少し上達を考えた短歌の詠み方をしていきたいということ。
囲碁のルールはわかっているんですが
テレビや新聞の盤面を見た時に
何をやっているのかさっぱりわからないんですね。
将棋なら、駒の動かし方がわかると
間違っていたとしても、
その局面や一手に対し、何かしら思うことになるはずなんですが
囲碁の場合、何も思わないというか
「わからない」以外、何もないので何とかしたいと思います。
詠みたいことがあった時に詠んでいる短歌も自己満足で充分なんですが
昨年夏、仕事で初心者向け俳句の書籍の紹介文を作って
もう少しやりようがあるのかなと思ってきました。
今、俳句ブームと呼ばれています。
その立役者の一人とされるのが夏井いつきさんで
毎日放送制作の「プレバト!!」で人気。
私が仕事で読んだのも彼女のものです。
前半、茂木健一郎さんとの対談が長く
これを買った人はこれが読みたくて買ったのではなかろうと
仕事でなければ投げたくなったかもしれませんが
後半は、基礎の基礎から簡潔にまとめられていて
秀句も紹介されていますので
対談を読み飛ばしても
これから俳句を始めようという方は
秀句を味わいつつ、作句にとりかかれるかと思います。
私は俳句をほとんど詠んでこなくて
何が私を詠む気にさせないかというと
「季語」の問題です。
短歌は何でもアリなんです。
私の場合、「私自身」を詠むものとして捉えていますが、
そうでなくとも構いません。
ただ、俳句は季語が主役です。
無季俳句というものもあり
季語がなくても俳句は成立しますが
基本は季語を立てて詠むものとなっています。
この季語には私たちの生活に合わないものもあります。
たとえば「ブランコ」。
「ブランコ」に季節があるものかと思いますが
俳句の世界では春の季語となっています。
中国、あるいはモンゴルの行事が由来らしいのですが
「そんなもん知るか」「そんなもんどうでもいい」となります。
私の理解としては、
夏でも秋でも冬でも句の中に「ブランコ」を詠めますが、
「ブランコ」の文字がそこにある必然性と
春ではないことを示す描写が必要になるかと思います。
面倒です。
とはいうものの、
季節を前提とすることで
読者に見せられる絵や
伝えられる思いはたしかにあると思います。
この書籍に紹介されている秀句も
そんな句が多いと感じます。
「プレバト!!」の俳句は書籍化もされていますね。
この番組で夏井先生がよく仰っているのが
「映像」の問題。
あの番組で「才能なし」に格付けされた出演者の句では
ここに問題があることが多いです。
番組では顕題として一枚の画像が提示されています。
作句した当人と、視聴者はその画像を見ていますが
できあがった俳句だけを見ますと
何のことやらわからないという現象が起きます。
だから望郷なら「ふるさと思う」などよりも
何か具体的な映像描写のほうがよいということになります。
映像、つまり視覚のほかに
嗅覚、聴覚、触覚、味覚の五感が上手く表現できていると
好評価になっていますね。
この映像の問題は
これは私がいつも思っている歌詞のつまらなさもそうです。
昨今は思い、概念だけでできあがっている歌詞が多く
映像やストーリーがないものが増えています。
おそらくは作詞者の責任だけでなくて
そういう発注があり、
そういうものばかりが採用されているのだと思いますが、
そのために、できあがった歌詞は似たものだらけになっています。
たとえば、「ありがとう」を
映像やストーリーを伴わない言葉だけで歌詞にしますと
使える言葉のバリエーションは限られているため
同じようなものになって当然なのです。
さだまさしさんもセルフカバーされている
山口百恵さんの「秋桜」は娘の母に対する感謝の曲ですけれど
たとえ、今後、このテーマでの新曲が何曲発表されたとしても
この歌詞のオリジナリティは薄れないはずです。
それは、ここに鮮やかな映像とストーリーがあるからなんですね。
おそらく、俳句でもそうなんだと思います。
伝わる伝わらないの問題に加え、
何しろ、短めに見ても俳諧は400年の歴史があります。
歴史の中で生み出された句は無数にありますから
たった十七音しかない中、
思いや概念だけですと
そこにオリジナリティは出てこないはずです。
短歌でいつも思うのは
「型があることの自由」なんですけれど
俳句だとそう思えなくなります。
俳句は短歌よりも十四文字も短く
さらに、季語を入れるとなると
かなり窮屈に感じます。
短歌でできることが俳句ではできず
逆に「季語が主役」という前提という認識があるため
短歌よりも鮮明な映像やストーリー、
思いを伝えられる部分もあるのかなと思います。
上手い人だと描かないことによる描写も
俳句では、さらに可能になるのかなと思います。
ただ、私には難しいです。
これを描きたい、
これも織り込みたいとなると破綻してしまうようですね。
俳句ではあきらめも必要と割り切ることにします。
ここのところ、こちらでもバケツの水が凍りました。
バケツの氷ではないんですが
以前詠んだ句です。
「凡人」ぐらいになれたなら。
上手くなると
ここにちゃんと思いを載せられるようになるのでしょうか。
夜半の月ごと踏み抜く初氷