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歴史秘話ヒストリア「上杉鷹山 天災と戦う なせばなる!奇跡の復興物語」 その2

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先週のヒストリア、こちらの記事の続きです。

http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11205756689.html

時間の都合で今夜で完結させる事は出来ませんでした…
明晩が完結篇になる予定です。


為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
      成らぬは人の 為さぬなりけり


35歳の時の上杉鷹山の歌です。
元々は中国古代の「書経」の

弗慮胡獲 弗爲胡成

の後半が由来らしいです。
「慮らずんばなんぞ獲ん、為さずんばなんぞ成らん」
というこの中国の諺を由来として、鷹山よりも前に

為せば成る 為さねば成らぬ 成る業を
        成らぬと捨つる人の儚き


と、武田信玄が詠んでいます。



さて、いわゆる七家騒動、
大改革に抵抗する先代からの重臣たちを粛正したことで、
御家騒動は収まりましたが、
鷹山のその強硬な態度により、
家中はまとまりを欠いた状態になっていました。

そんな時に起こる岩木山(現代の青森県)の噴火、
そして、浅間山(現代の長野、群馬県境)の噴火です。
この二つの火山の噴火は、周辺地域に火山灰を降らせただけではなく、
大気中を漂う火山性ガスと火山灰により、
日照不足に陥り、東北地方を中心にまたもや冷害をもたらしました。

天明の大飢饉です。
餓死者が続出、栄養不良が疫病の流行を加速させます。
実数は不明ながら、
日本全土で90万人以上の人口減があったとされています。

ただ、米沢藩は東北の他藩よりも、
死者数は少なかったとされています。
強制的に籾を供出させて、
非常食として備籾倉に蓄えていたおかげです。

しかし、予めの備えだけでしのげる天候不順ではありませんでした。
農作物の不作は続きます。
他藩から米を買い入れたり借り入れたりしていると、
ここまで切り詰めてきていた財政が元の木阿弥に。
鷹山自身も粥で過ごし、さらには断食で願掛けをしています。

年貢も思うようには得られず、
家臣たちの禄を減らさなくてはならなくなりました。
すると、役人の中には、
年貢の取り立ての時などに不正を働き、
余録を私するものが続出、
これにまたもや農民たちは希望を失い、
米沢の地を捨てて出ていくものが多数いたそうです。

いよいよ米沢藩も限界かという時に、
鷹山は隠居すると言い出しました。
先代の実子、治広に跡を継がせます。
まだ35歳です。

彼はこの米沢藩を諦めてしまったのでしょうか?

しかし、この頃に詠んだのが

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
      成らぬは人の 為さぬなりけり


この歌です。

その隠居の真意は定かではないものの、
番組では隠居することで、参勤交代の義務から解放され、
常に米沢に居続けられることが出来、
藩政改革に専念するためだと説明されていました。
あとは、七家騒動の余波を交わすため、
または、養父で先代藩主の重定を気遣って、
早々に彼の実子に跡を継がせたとも。

いずれにせよ、隠居後の鷹山は藩政改革を続けています。
この隠居後の鷹山が設置させたのが、

歴史秘話ヒストリア「上杉鷹山 天災と戦う なせばなる!奇跡の復興物語

上書箱です。
あらゆる身分から、藩の改革に対する考えを求めました。
鷹山は自分と周囲の人間だけではこの危機は乗り切れない、
よりよいアイディアを求めたのです。

この上書箱に寄せられた意見書の中に、
ある意外な人物の意見が入っていました。

藁科立遠(りっとお/りゅうえん)という人物です。
先の七家騒動で、藩医の藁科立沢という人物が
斬首の上士分を剥奪されていますが、
その長男が藩に意見してきたのです。

藁科立遠は、

倹約だけでは藩の改革に限界があり、
このままでは米沢が豊かになれない、
また、上に立つ者は天道に替わり
領民を撫育することこそが務めであるはずである


そう訴えていました。

鷹山は方針を転換します。
倹約を強いることは、人々から意欲も奪っていたのではないかと省み、
領民のための新たな政策を打ち出します。







ねてしてタペ




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