先週のヒストリア、以下の記事の続きです。
その1
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11205756689.html
その2
http://ameblo.jp/thinkmacgyver/entry-11206754114.html
倹約に倹約を重ねて、
米沢藩の財政再建に努めてきた上杉鷹山でしたが、
その考えを修正する事となります。
それまで倹約のために禁じられていた盆踊りなどの
庶民のささやかな娯楽を復活させます。
また、子供が育てられないほど困窮している農家には、
育児手当として1両を支給することにしました。
そして敬老精神を奨励、
敬老会で酒や菓子でもてなし、
その会では鷹山自身も老人たちの昔話に耳を傾けたといいます。
一方、改革は進み、
借金が増え続けるということはなくなったものの、
依然として莫大な借金は残っており、
米沢藩には新たな一手が必要になっていました。
藩では米以外の様々な産物を
藩の産業に出来ないかどうかを探っています。
番組で紹介された、現代の米沢名物として知られる鯉料理に繋がる
鯉の養殖もありました。
番組にはなかった産業ですと、
火打ち石、紅花、藍、塩、漆器、陶器、製紙、蝋などなど。
さまざまな産物から利益を得ようと試行錯誤していく中に、
大成功を収めることとなるヒット商品、
絹織物がありました。
今でいうシースルーです。
透綾(すきや)といいますが、こういった絹製品が
藩の財政を健全化させていく事となります。
絹糸を得るためには養蚕を行わねばなりません。
カイコには餌のクワが必要になります。
このクワをどのようにして増やせば良いのか、
番組では植木健司さんと仰る農家の方が登場していました。
彼のご先祖は桑の苗木の育成に長けていたらしく、
藩から指導役を任されていたんだそうです。
だから、彼の姓は「植木」。
これはこの役目ということで藩から与えられたものです。
桑の木を育て増やす手立てを講じつつ、
領内で生み出される生糸の価値を如何に高めるかも考えられています。
米沢藩以外にも、生糸を生産している藩は多数あり、
後発の米沢がその中を生き残るための方策が必要です。
米沢藩では生糸を生産するだけではなく、
織物加工までを行う事で、
他藩の生糸産地との差別化を図ったんです。
最新の技術を得るために京や越後から職人も招きました。
この機織り作業を担ったのは、
主に武家の女性たちでした。
米沢藩の産業のために、眠っている労働力を生かそうというのです。
クワを育てて養蚕、
そして、繭から生糸を取り出し、織物に仕上げるという
一連のシステムが藩内に出来上がりました。
鷹山たちが考えたシステムはこのようになっていました。
まず、藩が無料で農家にクワの苗木を与え養蚕を盛んにします。
採れた生糸は武士の子女たちの機織り作業で織物に、
出来た織物を藩が販売、
藩の全員が利益を生み出すシステムの中にいる形です。
そのために農家には桑畑の開墾資金を有利な条件で貸し付けたり、
農耕馬を貸し出したりしています。
そして、ほとんどの人は養蚕の手順を知らないことから、
「養蚕手引」なるマニュアルを作成し配布、
その結果、農民たちは荒れた土地を次々に開拓、
150万本ものクワの苗木が植えられました。
現代の考え方では、
藩が商社のような役割を果たしています。
米沢の下級武士が生み出した透綾など、
米沢織は安定した収入を生み出していきます。
そして、領民が増えることで、
年貢高も安定していきます。
上杉鷹山が晩年の頃、
莫大だった借財は完済されることとなりました。
上杉鷹山、72歳、
老衰で亡くなっています。
しかし、彼の活躍はその死後もまだ続きます。
彼が亡くなってから10年後、
今度は天保の大飢饉が起こります。
生前、次なる飢饉に備えて鷹山たちが用意していたものが、
この「かてもの(糧物)」です。
天明の大飢饉の時に、非常用の蓄えはなくなってしまいました。
その後もそれぞれ蓄えるように命じてはいましたが、
飢饉が長い年月に及ぶと、それも尽きてしまうでしょう。
だから、代用食が必要だとして、
「食べ物以外の食料」を求めて動植物が研究されました。
飢饉においては餓死者に加え、
食べてはいけないものを食べての中毒死も多く、
それを避けるためにも安全に食べられるものの研究が必要だったんです。
その成果と食料の保存法、調理法がまとめられているのがこの「かてもの」です。
領内に1575冊が配られ、
やがて鷹山たちが恐れ、備えていた天保の大飢饉が起きた時、
跡を継がせた藩主・上杉治広自身がこの「かてもの」を実践、
皆も藩主に倣い、米沢藩では、
この天保の大飢饉では餓死者が出なかったとされています。
そしてこの「かてもの」は太平洋戦争の時にも当時の米沢市長が市民に配り、
食糧難に備えたそうです。
やがて終戦、日本には連合国軍総司令部、
GHQ司令官マッカーサーがやってきました。
日本人記者団に対し、
彼の口からこのような言葉が出たとされています。
私が最も尊敬する日本人は上杉鷹山です。
ところが日本人記者たちの中には、
鷹山の事を知る者は少なく、
記者たちは顔を見合わせたそうです。
マッカーサーが鷹山のことを知っていたのは、
鷹山が跡継ぎの治広に伝えた
伝国の辞
を読んでいたからでした。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候
国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして
我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて
君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前
国を治める者としての心得。
たったこれだけの三つからなる教えです。
国は先祖から子孫を伝えられるもので、自分で勝手にしてよいものではない。
人民は国に属している人民であるので、自分で勝手にしてよいものではない。
国と人民のために立てられている領主であり、
領主のための国と人民ではない。
鷹山はこれを治広に伝え、
また、治広は次の代の藩主に伝え、
明治の版籍奉還まで、代々の藩主に伝えられていったそうです。
その時、もう一つ伝えられ続けたのが、
上杉鷹山が詠んだ
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり
この歌なのでした。
番組以外の部分が大きくなってしまい、
大がかりな記事になってしまいました。
上杉鷹山の記事は以上となります。
NHKの番組ではこれまでも鷹山を何度か扱っていたと思うんですが、
今回のは特に違って見えましたね。
今こそ、彼に倣うべき部分が多いからでしょう。
経済政策についてもそうですね。
彼がただ倹約するだけでしたら、
名君とは呼ばれていない訳です。
徳川幕府を見てみても、たとえば徳川吉宗の享保の改革があって、
あれは幕府の財政を立て直したという評価があるものの、
彼の質素倹約の方針は景気には悪影響を与える訳です。
それを模倣しようとした後の寛政の改革、
天保の改革なんかはもっと酷い訳で、
逆に犬公方・綱吉の時に盛んに行われた公共事業は、
経済発展に好影響を与えています。
(無計画な出費で江戸城は火の車、だから吉宗の改革なのですが)
この種の改革にはこういった両面が付きものだと思うんですが、
上杉鷹山は出し渋るだけではなく、
先を見通した上で、無料で苗木を与えてみたりするなど、
その他、新しい産業への投資を盛んに行っています。
吉宗の改革では人口増加はストップしていて、
一揆も増えているんですけれど、
鷹山の時の米沢藩にはそういうことはなかったのでしょう。
そんな事を考えながら、
記事を作っていました。
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