天皇の退位と即位と、
一連の譲位の儀式はなかなか見られるものではなく、
貴重な機会となりました。
さて、この改元ではテレビや書籍で元号の歴史が多く取り扱われています。
日本で最初の元号とされるのが「大化」です。
元号がなかった状態から
元号を創始することを「建元」というそうで、
今回のように元号を改めることは「改元」です。
歴史研究者は元号がない時代を表記する際に、
西暦かその時の天皇を付けて表します。
皇極天皇の時代ですと、
「皇極天皇の4年」「皇極4年」となります。
ただ、当時は十干十二支を使用していたようで、
これは現代でもその名残が見られます。
十干十二支は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種で、
これにご存じの十二支を合わせて「甲子(きのえね/こうし)」というふうに
その年を表すことにしていました。
長く使われていたようで、
ペリーの黒船来航後の世情変化について
「癸丑(きちゅう)以来」なんていう表現をよく見かけます。
現代でも甲子園球場は甲子の年の完成であるからですし、
十干十二支が60年で1周することから、
60歳が元に還るという意味で「還暦」という言葉が使われています。
元号の歴史は紀元前140年中国・前漢の武帝が定めたとされ、
それまでは西暦と同じように数字のみで呼んでいたそうですが、
皇帝は土地だけでなく暦も支配するという考え方から、
元号という発想が生まれたんだとか。
その最初の元号はその名も「建元」です。
日本では「大化」が初の元号であることはよく知られていて、
大化といえば大化の改新。
あのあの蘇我入鹿の首が刎ね飛ばされている絵が有名ですが、
あれは乙巳の変で、これも十干十二支でいう皇極4年、西暦645年のことです。
直後の改新の詔は現在の大阪城のあたりにあった
難波長柄豊崎宮(前期難波宮)で発せられたとされています。
この年が大化元年になったというわけで、
その根拠となるのが日本書紀なんですが、
「大化」に触れている資料がほかに見つかっていないそうなんです。
一説には大化という元号が存在したという事実はなく、
後の人の創作だと主張している研究者もいます。
ただ、それは主流派ではないようで、
実際のところ、元号・大化を定めてはみたものの、
ほとんど使用されることはなかったのではないかという説が唱えられています。
暦を支配するという意味合いがある元号は、
中世においても、改元に必要な費用を
時の権力者が用立てていますし、
改元はその国を象徴するものでありました。
また、独立国としての主権を主張する意味もあったとも。
大化の時代、大陸では唐の時代でしたが、
長く大陸の各王朝は周辺国を属国のように考えていて、
そんな中、日本では独自の元号・大化が定められましたが、
これを公に使用することは、
唐に対して波風が立ってしまうのではないかという懸念が
公文書に大化という元号が記されなかった理由だといいます。
また、皇極天皇は乙巳の変の翌日、同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に譲位、
これが我が国初の譲位となるわけですが、
乙巳の変を起こした中大兄皇子(天智天皇)は孝徳天皇を即位させたものの、
間もなく不仲になり、
その孝徳の元号を使いたがらなかったという説明もあります。
我が国の公文書に元号が見えるようになるのは
大化の時代から半世紀あまり後の大宝なんだそうで、
これはその元年に初の律令「大宝律令」が制定された時代。
この時、我が国は独立国としての体裁を為したと、
当時の人は考えたのかもしれません。
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