昨年、大河ドラマ「江」の放送を機会に、
信長以後の戦国時代について勉強し、
番組に合わせた記事も作成していました。
その中で、豊臣秀吉の生涯も3日ぶんで記事にしました。
そのための資料の中で、
時々目にしたのが、
秀頼は誰の子か?
です。
一番有名なのが大野治長ですよね。
ただ、これがどの程度、
それなりの資料に拠ったものなのかがよくわからなくて、
たとえば、石田三成父親説なんてものがありますけれど、
これは、徳川時代にも一切出てこない話だということで、
完全に与太話レベルだと考えていいらしいです。
では、治長の場合はどうなのか、
というところがわからなかったんですよね。
この大野治長について少し復習しておきます。
「江」では突然現れましたが、
あれは脚本家の筆の拙さに問題があるはずで、
あのタイミングで出すなら、最後まで出すべきではありません。
山里曲輪で自害でも出さなくていいです。
前田利家についても、賤ヶ岳にいないのに、
死ぬ直前になって突然湧いて出てくる、
先に何をどう描くかを考えていなかったのでしょう。
それはともかく、大野治長。
ドラマではたしか関ヶ原の戦いが終わったあたりで、
突然湧いて出てきて、淀と初対面であるかのようになっていましたが、
淀の乳母が治長の母で、つまり治長と淀は乳兄弟です。
豊臣秀頼の側近となる治長でしたが、
淀と乳兄弟であることから、
両者は親密であり、よって「大野治長父親説」が生まれた、
という考えが主流なのでしょう。
ここで秀頼の父親については置くとしまして、
タイトルについてのお話。
今朝の産経大阪版に、
大阪城天守閣研究主幹・北川央(ひろし)さん
による記事がありました。
それによりますと、当時伏見に抑留されていた
朝鮮王朝の官人がこのように書き残しているそうなんです。
秀吉は戊戌年三月晦から病気にかかり、
自分でもきっと死ぬだろうと悟って、
諸将を召し寄せて後事を託した。家康には、
秀頼の母淀君を室として政事を後見し、
秀頼の成人を待ってのち、政権を返すようにさせた
そして、
己亥年9月9日、家康が大坂で秀頼に拝謁した。
(中略)家康はまた、秀吉の遺命をたてに、
秀頼の母淀君を室にしようとした。
秀頼の母は、既に大野修理亮治長と通じて妊娠していたので、、
拒絶して従わなかった。家康はますます怒り、
修理をとらえて関東に流した
と。
なかなかセンセーショナルな話なんですけれど、
本当でしょうか?
最後の関東に、というのは、
その前に(家康自身のでっち上げといわれる)家康暗殺計画の首謀者として、
下総国に流された時期です。
その真の理由がこちらだったと?
ちなみに、戊戌年は1598年、己亥年は1599年にあたります。
これとは別に、五大老筆頭・毛利輝元重臣・内藤隆春が、
1599年に息子・元家に宛てた手紙の中で、
淀と治長の密通の噂について触れていて、
本来なら治長は切腹となるところを、
宇喜多秀家が庇い、高野山へと逃げることが出来たとしています。
この治長の高野山逃亡については、
奈良の興福寺「多聞院日記」にも記されていて、
そして、注目すべきは
大坂にて去る十日秀頼母、家康と祝言これあり候、
太閤の書置ある由に候
という記述。
そして、それを妨害したのが大野治長だと。
どうなんでしょうねえ?
豊臣秀吉といえば、徳川家康を臣従させるために、
妹・朝日(旭)を家康に正室として送り出し、
そして人質として、生母・大政所まで差し出しています。
さらには秀頼の正室には家康の孫の千を迎え、
これらは秀吉が如何に家康を危険視していたか、
また、その力を頼らなければならなかったかを表しているのでしょう。
もしも、自分の妹の後釜に、淀を送り込むことが成功したならば、
豊臣と徳川の結びつきは、
これ以上ないぐらいに、さらに強化されることとなったでしょう。
淀の息子が秀頼であり、その正室は千。
また、淀の妹の江は家康の跡を継ぐ秀忠…
事実として確かなのは、
徳川家康と淀は結婚しなかったこと、
そして、後の大坂夏の陣で徳川に責められた秀頼と淀、
大野治長は自害していることです。
もしも、秀吉のこの奇策が事実であり、
関ヶ原の戦いの前年に実現していたら…?